インデックス>目次>はじめに>日記 高野山編


紀伊山地の霊場




11/27 晴れのち雨 気温15℃ 6日目予定より大幅に時間がかかった町石道。
  和歌山東急イン→女人高野・慈尊院→丹生官省符神社→展望台→雨引山分
  岐→六本杉峠→二ツ鳥居→笠木峠→矢立→大門→根本大塔→
清浄心院
   

  5時に起きて朝食に夕べ買っておいたオニギリを分けて食べる。7時にチェッ
クアウトする。和歌山市駅まで歩く、途中のコンビニでお昼のおにぎりを買い求
める。和歌山で乗り換えて高野口を目指す。8時55分に到着。用足しして歩き
はじめ
万年山 慈尊院まで30分ほどかかった。有吉佐和子の小説「紀ノ川」
に登場し広く知られたところである。開基は
山門
本堂
弘仁7年(816)、弘法大師が高野山
開創の際、参詣の要所に
当るこの地に、表玄関とし
ての伽藍を創建、高野山
の庶務を司る政所を置き、
高野山への宿所、冬期避
寒修行の場とした。  
弘法大師の母は大師の郷
、香川県善通寺より、大師
の開いた高野山が一目見
たいと、その高齢をおしてここまで来られた。しかし当
時の高野山は七里四方が
大師堂
大師母公廟
女人禁制であったため、ここに滞在され、御本尊弥
勒菩薩を深く信仰された。
承和2年(835)2月5日、母
は入滅された。そのとき、
弘法大師は弥勒菩薩の霊
夢を見られたため、廟堂を
建て、自作の弥勒菩薩像と
母の霊を祀った。
弥勒菩薩は別名慈尊という
ことからここを慈尊院と呼
ぶようになったという。また、大師は月に9度は必ず山道を下って、母を尋ねら
慈尊院の納経書
れたので、この地の名前を九度山という。
母は御本尊の弥勒菩薩を熱心に崇拝されていたの
で、入滅して御本尊に化身されたという話が広まり、
別名女人高野の名がある。女人高野は他に奈良県
室生村室生寺、大阪府河内長野市金剛寺 、三重県
勢和村神宮寺などがある。      
大師堂、弥勒堂、多宝塔などがあります。弥勒堂と
は(廟)は母の没後、信仰の篤かった弥勒菩薩像と共
に太師が創建された廟です。
今でも子宝安産、育児、授乳等を願い、乳房型絵馬を奉納、祈願した。また髪
の毛をお供して、病気平癒を祈る人が絶えない。また、こんな言い伝えも残る。
高野山詣りは、高野山の玄関である慈尊院弥勒菩薩とご縁を結び罪障を流し
弥勒堂
丹生神社を望む
てから山上へ登って頂くの
が高野山への本参りである
と書かれています。
大師の言葉に「我に十度礼
せんよりは、我が母に九度
礼をとげよ」。
境内から真っすぐ前を見る
と階段があり、それが丹生
官省符神社です。弘法大
師が慈尊院創建のときその鎮守として造られた神社です。丹生都比売、高野厨
子がお祀りされています。
始まりを示す180町石
弥勒堂が現在の位置に移された際、丹生官省符神
社も一段高い神楽尾山(かぐらおやま)へ移転しまし
た。本殿3棟は、木造一間社春日造り、桧皮葺、極
彩色北面です。室町時代末期のすぐれた遺構で細
部の彫刻には見るべきものがあります。
最初の町石、180町石は神社石段の途中にありま
す。町石とは大師が高野山参拝者の案内に一町=
109m毎に立てられた道標で、慈尊院を基点として
奥の院・根本大塔まで続き数は180本です。胎蔵界
180尊にあて、さらに大塔から奥の院まで36町石を建
て、金剛界37尊とした。建てられたときは 木製でしたが鎌倉時代に御影石の
高さ3mを超す五輪型卒塔婆に立替られました。七つの登山道が在ったといわ
案内板
社殿

れ、町石道は大師よつて
開かれた初期の道と言わ
れています。この道が高野
山への表参道で、高野山
町石道といわれ、約千年の
間、信仰の道として人々に
より歩き継がれてきました。
現在では、年間を通じて参
詣道として、またハイキング
コースとして、歩かれています。
 町石道のハイキングコースの案内は南海のHP、を参考に見てください。
      http://www.nankai.co.jp/koyasan で地図のコピーもできます。
パンフレットによると距離約23.5km・所要時間約7時間10分となっています。
神社にもお参りして境内を出ると勝利寺の下に出る、休憩所とトイレがあり身支
度していざ出発です。展望台までは急な坂道を進みます。道は舗装されてい
まし、案内板がところどころに整備されていて道に迷うようなことはない。
休憩所で一緒になったハイキングの人と共に登る。彼らは案内人(語り部)を同
行されていて説明が道中で聞けそうです。こちらは先を急ぐので途中で別れ先
に進む。展望台から柿畑の中を歩きます、町石道が農作業にも使われている。
下には紀ノ川が見渡せるようになります。雨引山分岐の少し前からは杉林の中
を歩くことになり、これは最後まで続く。雨引山分岐を過ぎるとしばらく平坦な道
に変わる。一里石を通り過ぎ歩くと石段が現われ、石段を登ると六本杉峠であ
る。六本杉というから杉の木が6本あるのかと思ったら、杉の木はたくさんあ
六本杉峠
二ツ鳥居
る。ここを通り過ぎた頃に
大きな雷が一つ鳴つた。心
配していたら、まもなく雨が
降ってき出した。しかし、杉
林の中を歩いているので助
かる。古峠を過ぎた展望台
まで行くと横降りの雨になる
。展望台は屋根があるが先
客で一杯である。彼らはガ
スコンロでお湯を沸かして昼飯の用意をしている。入れないので木の陰でカッパ
を出して着る。隣が二ツ鳥居で鳥居が2基あるので二ツ鳥居と言うのだ。この
鳥居は両部鳥居といい、神仏習合で栄えた神社に多い四脚の稚児柱と柱頭
に台輪がある形式で、日本の三大鳥居に数えられる厳島神社、春日大社も同
じ形式の鳥居である。
紀ノ川を望む
白蛇の岩と鳥居
遍路道
さらに進むと白蛇の岩と鳥居が現れる。.垂迹岩(すいじゃくいわ)と言い、こん
な話が伝わっています。
この岩の隙間に入り込もうとしていた蛇を、杖でつついて驚かせた僧が、丹生
都比売神社からの帰途、この岩の前を通ると白い大蛇が岩の上の木に巻き付
いて待ち構えていたという。僧は自分の非を悟り、丹生都比売神社でご祈祷を
して戻って見ると、大蛇はすでに消えていたといいます。
そのまま歩くと、突然この世に引き戻される。紀伊高原カントリークラブの芝生
が見えてきます。フルバックのティが遍路道をはさんで反対側にある。やがて
神田地蔵堂
押し上げ石
応碁池が現われると、横笛
が出家後、滝口入道に一
目会いたさにこの堂に来て
入道を待ったという、神田
地蔵堂につきます。横笛の
恋の物語はこんなです。
平清盛の宴で雑司「横笛」
の舞「春鶯転」を見た平家
一門の「滝口時頼(滝口入
道)」は横笛に恋をしました。恋文を送る時頼でしたが横笛からの恋文の返事
はなく、時頼は横笛への想いを断ち切る為に嵯峨野の地で出家します。一方
舞台以来、毎日たくさんの恋文を受け取る横笛でしたが時頼の手紙だけには
心惹かれるものがありました。その後横笛は奈良の法華寺で尼僧となり修行に
研鑚しますが、ある日時頼が高野山で修行をしていることを知ります。横笛は
女人禁制の高野山の山麓、天野の里(神田地蔵堂)へ移り時頼に会える日を
待ちますが重い病にかかり、時頼に会えないまま19歳という若さで死を迎えまし
た。自らの後を追って出家し、天野の里で会いたいと涙にくれて死んでいった
横笛のことを忘れたことはありませんでした。大円院八代住職に就いた滝口入
道は部屋から庭先の古梅の木に止まる鶯に気がつきました。鶯は止まり鳴きも
せず、ただじっと滝口入道を見つめています。目が合い滝口入道がハッとした
瞬間、鶯は枝から離れ弱々しげに羽ばたき井戸に落ちてしまいました。
滝口入道は井戸から鶯をすくいあげ亡がらを胎内に納めた後、阿弥陀如来を
彫りました。大円院の本尊鶯阿弥陀如来がその仏像です。
地蔵堂の本尊は子安地蔵尊です。 地蔵堂を通り過ぎた杉林の中で昼飯にす
る。
その後しばらく平坦な道が続き、右側にはコースがあります。登り坂になる
と直ぐに笠木峠につきます。その後ダラダラと下りになり、左には高圧鉄塔が
見えてきます。三里石を過ぎると坂も急になり、左の谷には金網が張られてい
るようになります。するとやがて矢立てに着きます。町石道を下り切ると、国道4
80号との合流点です。
矢立
大門
時間はすでに14時10分を過ぎている。いるところで、
公衆便所やガソリンスタン
ド、信号機などがある交差
点である。国道も右へは37
9号で、左へは480号で高
野山へ行く。向かいには矢
立茶家がある。ここの焼き
餅は名物というがなにせ時間がない。時間が掛かり過
ぎていて大門まで2時間以
内で行かないと---。用足をしてカッパを脱ぎ国道を横断し、民家と民家の間
の舗装路を歩るく。登りはじめはいっもきまって急坂である。ほどなく袈裟掛石
に着く。
この石のいわれはこんな話です。
高野山は明治時代までは女人禁制でした。弘法大師の母君、阿刀氏はある
日、禁を破って五十四町石あたりまで登山してきました。ここより先は入れませ
んと大師がいくら説明しても母は聞き入れません。そこで大師は石に袈裟をか
け「ここを越えられますか」と言いました。母が飛び越えようとすると突如雷鳴が
とどろき、火の雨が降ってきました。驚いた大師はとっさに岩を手で押上げ、そ
の影に母をかくまいました。五十四町石の先にあるその岩には今も大師の手
形が残っているといわれているが、石の表面は苔などで覆われて良く分からな
い。また、ここからが高野山の清浄結界とされるゆえんだそうです。石の下をく
ぐると長生きするといわれ、くぐり石とも呼ばれています。
次に国道が表れ横断すると展望台である。ここからの展望はすばらしく、遠くは
淡路島まで見えるというが今日は生憎の雨である。展望台を下りて歩くとまた国
道と出会うがすぐに遍路道に分かれる。すぐの34町石が倒れたままになってい
る。道中で倒れているのはここだけであつた。
しばらくすると川が現れてそれに沿って登ると
木で出来た階段が表れ、それを
上がりきると舗装の車道にでる。左側を見ると、とてもなく大きな赤い建物が目
に入る、これが目指してきた大門なのだ。大門は高野山一山の総門で、高さ
25.8m、法橋運長作の金剛力士像を左右に安置した重層の楼門。
時間はもう15時55分になっている。その後7分ほどで根本大塔つく、一の町
石を探して境内に入る。お参りは明日にしよう。あったあった一の町石である。
180の道標をたどって、高野山まで登ってきたのである。
1町石は大塔と愛染堂の間に
感想はとにかく遠い2
0劼任△襦
その後宿を目指し歩く。
清浄心院
やっと一の橋である。橋の
手前左側が今晩の宿で
ある
清浄心院である。若
い坊さんが迎えてくれ、杖
を洗うと真しいタオルをも
ってきてくれた。杖は部屋
まで持っていってください
といわれる。今晩のお泊
りは我々二人と外国の女性と、その子どもだけだとい
われる。建物は桧皮葺の屋根で古いのが良く分か
る。風呂は高野槙で作られた大浴場ではなく、小さな風呂であった。
部屋の窓から外を見ると立派な庭が作られている。夕食は5時半からといわれ
呼びにまいりますといわれた。
暖房は石油ファンヒーターとやぐらこたつであ
る。夏はクーラーも無いようなので扇風機なのだろう。

   庭            名本傘桜      廿日大師門       夜のお膳
  このお寺の縁起は弘法大師により開かれ院号も勅名である。本尊の廿日大
師像は大師入定の前日自ら彫造開眼せられた姿である。
諸代大名の檀主20家あまりを持っており、山内では最も大きな寺院であるとい
う。特に滝口入道を初め豊臣秀吉、徳川家康など檀契が深い。
宿泊先

清浄心院


電話番号:0736-56-2006

住   所:高野山町高野山566
宿泊料金:10,000円 1泊2食付き、タオル、湯上げ、ハミガキセットあり、
トイレ(洋式、ウオシュレット付き)
リピート度:考える


11/28 7日目何とか皆様のおかげで結願できました。有難いことです。 またいつか歩けれるようにしたいものです。
   清浄心院→高野山奥の院→金剛峯寺→壇上伽藍→自宅へ

 5時に起床。朝のお勤めは霊牌堂で6時30分からである、外人の親子2人も列
席している。その後朝食。準備が出来たので会計をお願いして支払う、安かっ
たか高か
朝食
ったのかは分からない、泊まった人の感覚だけである。8時過ぎに奥
の院に向かう。35分ぐらいで着いたがすでに団体客
でごった返している状態である。
奥の院は、一の橋から弘法大師の御廟までの約2k
mの浄域で、ここで身心をととのえ礼拝しましょう。こ
の一の橋から奥の院までの参道の両側には何百年
も経た老杉がそびえている。 大杉林の中に数十万
基にも及ぶ墓群があります。
大師腰掛石を過ぎ、中の橋を渡ると左側に汗かき地
蔵と姿見の井戸があります。このお地蔵さんは不思
議なお地蔵さんで、身の丈2尺(約60.6センチ)余りの五輪形の石に汗かき地
蔵とよばれる地蔵尊が彫られています。この地蔵さんは毎日巳の刻(今の午前
9時〜11時)になると必ず汗を流すといわれます。この地蔵さんは死者が冥土
に赴いて地獄の閻魔から裁きをうけ、ひどい苦しみに遭う
中ノ橋の汗かき地蔵
姿見の井戸
ことから救ってくださ
っているために、その苦労
が汗になって流れているの
だといわれています。また、
汗かき地蔵の右側に古い
小さな井戸があり、大師が
掘った井戸と伝えられてい
ます。高野山では姿見の
井戸とよばれ、この井戸を
のぞきこんで、自分の顔が
写らなければ3年以内に死んでしまうという…。
芭蕉の句碑
御廟橋
御廟橋を一礼して渡り奥の
院へ。この橋は玉川清流に
架けられた橋で、別名「無
明の橋」とも言われます。板
石は36枚で、橋そのものを
1尊とし、金剛界37尊をあ
らわしています。この橋を渡
ると仏の浄土に往き、罪煩
悩が取り除かれると信じら
れて、
橋を渡ると弘法大師が衆生済度のために入定された霊域に入ります。
参道正面の石段の上に燈籠堂があり、御廟の前堂として真然が創建したもの
である。燈籠堂から左廻りに裏側の御廟、(御廟は大師信仰の中心聖地です。
転軸、楊柳、摩尼の三山に囲まれた台地にあり、その山裾を清流玉川が流れ
ています)、
燈籠堂の地下(こもった大師の目線と同じ高さなるところ)の三ヶ所
にお参りします。燈籠堂はお照という貧しい娘が髪を売って両親の菩提のため
に献じた祈親燈の「貧女の一灯」が有名。白河天皇が献燈された「白河燈」、こ
の二燈は一千年来燃え続けています。また、昭和天皇から献上された「昭和燈
」を合わせた三燈は常明燈とよばれています。御廟は燈籠堂の奥にあり、弘法
大師空海の眠る場所です。中に入ることは出来ませんので御廟前からお祈りし
ます。その後ぐるっと回って燈籠堂の地下に階段をおります。祭壇があり眼を
凝らすとお姿が見えてくるといいます。

水向地蔵
奥の院納経書
水向場の隣にある御供所(
毎日弘法大師空海への食
事が作られている場所)で
納経を頂く。ここはお守りな
どを売っている。その横か
ら奥に入るとお茶が無料で
飲める休憩所もある。ただしセルフサービスです。

その後バスで千手院橋へ行き、歩いて総本山金剛峯寺へ、
総本山金剛峯寺山門
本堂
金剛峯寺はもともと高野山全
体の寺号ですが、明治時代以
降、高野山の有力寺院の合併
によって現在地に初めて単体
で金剛峯寺を名乗る寺院が誕
生しました。これが現在の高野
山真言宗の総本山「金剛峯寺
」なのです。
豊臣秀吉が慈母の菩提追善
のために建立したお寺である。現在は高野山真言宗の総本山として宗門行政
かご塀
六時の鐘
の府となっている。主殿は、
東西30間、南北35間の大
建築で、大広間には狩野
探幽の襖絵『松に群鶴』が
、また豊臣秀次が自刃した
という柳の間には狩野探斉
の襖絵『雪柳白鷺』が描か
れています。六時の鐘は
伽藍の入口の高い石垣の
上に有ります。福島正則が父母の追善菩提を祈って元和4年に建立したもので
す。隣の壇上伽藍へは歩いて移動する。真言密教の大伽藍で、壇上とは大日
如来が鎮座する壇、または修行の道場を意味します。大日如来を中心とした
金堂
根本大塔
密教の教義や世界観を建
造物や仏像、仏画によって
目に見える形で表現しよう
としたのがこの伽藍なので
す。御願堂とか薬師堂とも
呼ばれ、いつしか俗称の金
堂が通り名となりました。金
堂は伽藍の中央にある高
野山一山の総本堂で、弘
法大師によって創建され、高野山の主な法会はここでとりおこなわれます。
なぜこの地に造られたかはこんな話があります。
弘法大師はここで白と黒の犬二頭を従えた猟師と出会い、三鈷杵の落ちたと
ころ、すなわち現在の高野山上まで導かれたと伝えられます。この猟師、実は
高野山一帯の地主神・丹生都比売明神の御子神である狩場明神の化身であ
ったのです。 高野山にたどり着くと、三鈷杵は松の木の枝にひっかかっていま
した。以来この松は三鈷杵と同じく三つ葉をもつようになったのだそうで、三鈷
の松として今もその子孫が壇上伽藍の御影堂の前に植えられています。  ここ
は大師が真言密教の根本道場として最初に開かれた聖地である。このような
場所がなぜ必要だつたのかは真言密教の教えにあります。
その教えに「身口意の三密」があり、
  ・ 一 身密 手に印(手を様々な形に組み、仏を象徴する)を結ぶ
  ・ 二 口密 口に真言(短い呪文)を唱える      
  ・ 三 意密 心を三摩地(精神統一された状態、三昧ともいう)に置く
この3つを一体化すれば即身成仏できると説かれています。
高野山についてはHPで詳しく書かれています。 http://www.koyasan.or.jp/
をみてください。
お参り後千手院橋へ戻りバスで高野山駅へ行く、南海電車で難波までもどる。
地下鉄で新大阪へ、昼食たべてから新幹線で自宅へもどる。
これで4回目の区切り打ちも無事終了で、1回目の遍路が終わったことになる。
親切な皆さんに助けられてなんとか結願できました。こんどいつか全部歩いて
回ってみたいと思っています。
  


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