インデックス>目次>はじめに>日記 讃岐編


讃岐の国涅槃の道場


  • 11/24 今日こそ讃岐うどんをたべてみようか!
    天然温泉きらら→(83番)一宮寺→遍照院→食わずの梨→屋島の御加持水
    →(84番)屋島寺→(番外)須崎寺→(85番)八栗寺→(番外)六万寺→(番外)
    地蔵寺→円通寺→(86番)志度寺→富士屋旅館
  • 11/26 学駅までは遠いなー
    八十窪→長野分岐→市場町大門→学駅→JRで徳島経由で坂東へ→(1番)霊山寺→徳島へ戻ってヘェリーで和歌山へ→和歌山東急イン
  • 11/27 高野山へ町石道は遍路転がし?
    東急イン→高野口→慈尊院→丹生官省符神社(1番町石)→展望台→雨引山分岐→六本杉峠→二ツ鳥居→笠木峠→矢立→大門→壇上伽藍→清浄心院

11/22 晴れ気温16℃1日目 4回目区切り打ちの始まりです。
 
自宅→琴平→金毘羅さん→番外霊場 松尾寺→(72番)曼荼羅寺→(73番)出  釈迦寺→(74番)甲山寺→番外霊場 仙遊寺→(75番)善通寺→宿坊いろは   会館

 朝7時に家をでる、名鉄電車で新幹線の岐阜羽島駅へ出る。11月なのでま
だ暗い、今日も良い天気になりそうである。この旅のあいた雨が降らないように
祈るばかりである。今回金毘羅さんから打ち始めることにする。「同行二人」に
よると昔から、善通寺を打ち終えた後で金毘羅宮へお参りすることは遍路者の
定になっていたと書かれてあった。「金毘羅は順札の数にあらずといえども、遍
路の人、当山に往詣せずということなし」。金毘羅とは、蛟竜などに訳される梵
語「クンピーラ」の音訳で、実際にはワニであり、水神として尊崇された。
 金毘
羅さんのHPは http://www.konpira.or.jp/ です。
旭社
大門
最初に迎えてくれる二層
入母屋造り・瓦葺の豪壮
な「大門」です。この大
門をくぐると綺麗な石畳
の参道が現れ、ここから
が金刀比羅宮の境内で
す。
門をくぐると白い大きな
傘を広げた古風な姿で
迎えてくれてるのが、「五
人百姓」と呼ばれる五軒の飴屋です。特別に境内で店を開くことを許されてい
るのです。
本殿全景

本殿
階段を進むとやがて立派な建物が現われます。本殿と間違えてしま
いそうなひときわ華麗で豪
壮な社殿「旭社」です。金
毘羅大権現時代の金堂で
、本殿です。その後直角に
曲がり急な階段を上ると
「本殿(本宮)」です。
大社関棟造り・檜皮葺の荘
厳な社殿で見事なものです
。ご祭神は、大物主神と崇
徳天皇をお祭りしております。また、金毘羅参りが盛んになったのは15世紀か
らです。石段で有名であり、表参道から金刀毘羅宮までは785段、さらに奥の
院まで583段で合わせて1368段あります。普通に歩けば金
絵馬殿
刀毘羅宮まで40
分、奥の院まで1時間20分くらいかかります。今回は
本殿まで列車を降りてから約1時間でした。またこの
町には門前町の繁栄を伝える現存する日本最古の
歌舞伎劇場「金丸座」があります。天保六年(1835)
に建立された、二階建て、本瓦葺の芝居小屋で国の
重要文化財に指定されています。本殿の横からは讃
岐平野と琴平の町が一望できます。御朱印を頂いて
、下りにかかる。
100段目ぐらいで探しても松尾寺への曲がり角が分
からないのでお店の人にたずねる。やっと分かって右へ折れる。琴平公会堂のすぐ横にあったが、公会堂へ上ってしまった、隣への道はないのでもう1度降りて左へ歩く。すぐ横に上り口があったのだ。山門は立派である。四国曼荼羅霊場に入っているという。
番外霊場 象頭山 松尾寺ある。金毘羅宮はもともとは、松尾寺の境内にあ
松尾寺山門
松尾寺
る鎮守社であったが、神仏
分離令で分かれた。こんぴ
らさんは琴平の中心的存在
になり、松尾寺は忘れ去ら
れた。金毘羅宮と、松尾寺
を併せて参詣することが本
来の主旨だという。
松尾寺については
http://www.mandara.gr.jp/
を御覧ください。
町に戻って食事をする。調度定食があるというのでいただく。その後駅へもどり
コインロッカーから荷物を取り出しそれぞれのリュックに分けていれる。
列車で善通寺に戻りタクシーで72番へ向かう。後で分かったことだが、今は捨
身ケ嶽禅定まで車で直接上がることが出来るようになっている。上までタクシー
に乗って行けばと悔やんでいる。
山門
本堂
タクシーを72番 我拝師
山 曼荼羅寺
の山門で降
りる。      
この寺は弘法大師の先祖
佐伯家の氏寺として建立さ
れ、世坂寺と号していた。
その後大師が母玉依御前
の冥福を祈り、唐から持ち
帰った金剛、胎蔵両界の
曼荼羅を安置。本尊に大日如来を祭り、寺の名を曼荼羅寺に変えたとされる。
大師堂
枯れた在りし日の松
その時に植えられたという
大師お手植えの松が(県の
天然記念物指定)巨大な笠
のようなので笠松と呼ばれ
ていたが、平成13年に枯れ
たので、平成14年に切られ
て無くなってしまいました
。画像は眞鍋さんからお借
しました。
眞鍋さんのページは
    http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Suzuran/9180/ です。
お参りし山門を出て右へ門先屋旅館を右に回ると直ぐに左折れする道がある。
これが遍路道である。右側を見ると車道があり、バスが止まっている。2寺共通
の駐車場になつているようだ。車道を横断すると参道になり、急な階段の上に
  73番 我拝師山出釈迦寺がある。この寺の名前はお釈迦さまが山にこも
山門
本堂
って苦行したあとで、山から
出て痩せ衰えた姿を「出山
の釈迦」というのに因む。
縁起は、7歳の大師が多く
の人びとを救いたいと、我
拝師山に上り捨て身の修
行をされ、釈迦如来のご加
護を賜った。のちにおとず
れた大師は釈迦如来を刻
み本尊と師、堂宇を建てた。捨て身の修行をされた
場所を捨身ケ嶽禅定と呼ぶ。境内からは一度下ったあと急坂を登るとたどり着
大師堂
捨身ヶ岳遥拝所
く。今では車で上がれます
。そこからさらに上ると7歳
の大師が身を投げた所に
行ける。稚児大師像と護摩
壇があります。
また境内の高いところに遥
拝所があり、ここで念仏を
唱えれば同じ御利益がい
ただけるという。
もとの道を門先屋旅館の所までもどり、一路下る。弘
階池を回り県道48を横断すると、その先は遍路道で田んぼの中である。前方
に小高い山が現われ甲山という。南側(県道側)には神社があり、目指すお寺
は北東にある。山の北側を東に回りこむと
山門
本堂
74番 医王山 甲山寺
着く。おおよそ25分かかる
。縁起は伽藍を建立する
ため霊地探していた大師が
、甲山の麓で翁に会う。こ
の翁が毘沙門天たと悟った
大師は、毘沙門天像を刻
み岩窟に安置した。
また、嵯峨天皇に満濃池の
修築の勅令を受けた大師は、完成祈願の秘法を修し
、薬師如来を刻んだ。難
大師堂
工事を完成させた功労金でお寺を建立、薬師如来を
本尊として祀った。弘法大師が刻んだという毘沙門
天は大師堂の左側の山裾のお堂の中にある。小さな
穴から拝むことができると書かれてあったが覗けなか
った。
また、子宝を願う女性の振興の厚い子安観音。子ど
もに恵まれない女性が地蔵の前掛けを持って帰った
ところ、子どもを授かったという。今でも前掛けを借り
にくる習慣が続いているという。
甲山寺の前にある橋を渡り対岸を歩く。食品工場に
突き当たったところで左折し、もう1度右に曲がる。
住宅街で通り抜けると県道48に出る。そのまま進み突き当りが昔、仙遊ヶ原地
仙遊寺
犬塚>

蔵堂といわれていた、番外霊場 
仙遊寺
である。
大師が幼き頃に泥土で遊んで見え
たところで、神童と呼ばれた由緒
あるとこである。
門まで戻り南の方角に歩く。信号
のある交差点を渡るともうすぐで、
75番 五岳山 善通寺である。
ここまで20分で着いた。
弘法大師の出身である佐伯氏の屋 敷跡に建立された寺。
つまり、ここが「弘法大師生誕の地」である。大師にまつわる
霊跡のなかでもその価値は高い。真言宗善通寺派の総本山である。高野山の
金剛峯寺、京都の東寺と並ぶ弘法大師三大霊跡の一つである。広大な敷地を
持ち東西2院に分かれている。
    HPはhttp://www.zentsuji.com/です。
大門
本堂(金堂)
寺は唐の青龍寺を模したも
ので寺号は父の名前に、山
号は西院の背後の山の香
色山、筆山、我拝師山、中
山、火上山の五峰にちなむ
。巨大な大門をくぐりると東
院の境内です。高さ45mの
五重塔、本尊の薬師如来
を祀る金堂など数多くの建
物があり、境内も広々としている。また大きな楠の木も
ある、有名な赤門は金堂の右手奥に建っています。
五重塔
赤門
東院の境内から中門をくぐ
ると、両側に露店が並ぶ参
道へと出る。参道は「奥の
院」の別名でも呼ばれる西
院へ通じ、仁王門が区切り
建っている。くぐると回廊に
なっていて回廊の中をまっ
すぐ進むと、正面に大師像
を安置した御影堂がある。
その下は「戒壇めぐり」の暗い通路になっている。
こんな大師に纏わるお話もあります。
唐に留学するため母に自画像を渡そうと考え松の木に登り、池に映った姿を見
て描き始めましたが、暗くなってしまったが、金色の光が裏山から差し込んでき
て書き上げることができた。振り返るとお釈迦様が光っていたという。そのため
自画像にはお釈迦様が描かれている。この絵を土御門天皇にお見せしたとき
に、絵の中の大師が瞬いたので、「瞬目(めひき)大師」との名を賜ったという。
仁王門
大師堂(御影堂)
西院にある聖霊殿と護摩堂
に挟まれるようにある小さ
なお堂に祀られる「ほやけ
地蔵」には、口から左頬に
かけて灰色の大きなあざが
ある。これは昔、頬に大き
なあざのある娘が毎日ここ
にお願したところ、娘のあざ
はきれいにとれて、そのか
わりに地蔵様の顔にあざができたという伝説がある。
以来、あざや病気の平癒を願う人々の参拝が続く。
宿坊は西院にあり御影堂の左側突き当たりである。白い鉄筋の建物で左半分
が新しい。平成11年12月22日温泉法の温泉に適合し、天然温泉も売り物にし
ている。“大師の里湯温泉”という名前がついている。部屋は真新しいし、エヤ
コンも完備され、トイレはまたすごく綺麗だ。暖房便座でシャワートイレである。
ただし部屋にはついていない。 かぎは部屋の外からはない。 しかし内カギは
夕食
いろは会館
あり、寝るのにはなにの心
配もない。お風呂も広く新
しい。お風呂は玄関の受
付を通り過ぎて建物の右
後ろにある。
夕食は一階の食堂である。
団体客と一緒であるのでに
ぎやかにいただける。お酒
の自販機(ただしチケット売
り機)があり、皆さんご機嫌で食べておられる。添乗員
さんがお客の周りを回って何か注文をとってるようだ。洗濯機、乾燥機は地下
に準備されていてすべて無料、洗剤もバケツに用意されている。歩きには有難
い心配りである。部屋にもどり明日の納札札の用意をして寝ることにする。
今日は疲れた、まだ歩くのに慣れていないのに金毘羅さんの階段が体に応え
ているのか。先回もそんことを反省を言っていたことを思いだす。
宿泊先

善通寺宿坊
いろは会館

電話番号:0877-62-0111,FAX0877-62-4302
住   所:善通寺市善通寺町3-3-1
今回の宿泊料金:5,775円 1泊2食付き
トイレ(洋式)、天然温泉、新しく綺麗。入口の戸は外からは
カギかけれないが、内側からはカギかけられる。
リピート度: ◎

11/23 晴れ気温16℃2日目 先は長いが頑張って歩こう
  いろは会館(宿坊)→善通寺駅→金蔵寺駅→(76番)金蔵寺→(77番)道隆寺→
  (78番)郷照寺   →坂出・鎌田醤油→八十場の水→(79番)高照院→(81番)
  白峯寺→(82番)根香  寺→足尾大明神→
(80番)國分寺→天然温泉・きらら

 朝6時からお勤めがあるので5時に起きて用意する。10分ほど前に本堂へ
入る。団体客は少し遅れて到着される。最前列の真ん中に座る。
ここのお寺は最初にお話があり、その後お勤めである。お話の要約は最近言
葉づかいが乱れているが、悪いものは悪いと注意してあげましょうということでし
た。具体例を取り上げ分かりやすくお話いただきました。お勤めが終わった後
で戒壇巡りが許されました。正面の左手から地下に降りてゆきます。左手で感
じる壁の感覚を頼りに歩くのです。89mの長い暗闇は、奥へ行くほど不安と恐
怖になり、やがて見えるご灯明の灯には、ホットしたものを感じました。ご灯明
のある場所には祭壇も設けられて、ここが大師の生まれた場所だという。暗闇
のせいか自然と御宝号が口からでる。6時40分に終り、食堂へ移動して朝食を
本堂内
本堂内
頂く。夕食と同じように
団体客も一緒なのでに
ぎやかである。急いでい
ただいて出かける準備
をする。こちらの予定し
ていた時間よりお勤め
が遅く始まったので(冬
時間のため)今回はJR
で隣の駅まで乗ることに
して駅へ歩く、結構な距
離があり、次のお寺まで歩いたのと少ししか違わないような気がした。金蔵寺駅
を降りた道を左に歩くと県道25号にでる。
山門
本堂
信号で横断しそのまま進むと左手に
76番 鶏足山 金蔵寺

はある。この金倉寺は
天台宗で天台宗は京都
の比叡山延暦寺を本山
とする宗派であり、弘法
大師の甥の智証大師円
珍が生まれた寺である。
本堂左手には円珍ゆか
りの鬼子母神堂がある。
日本で初めて鬼子母神
(訶梨帝母尊)が現われたといわれている。
智証大師が5歳のときに天女が現われ、仏道に入るならずっと守ってるといっ
大師堂
鬼子母神堂
て去った。この天女が鬼子
母神だったといわれる。

乃木将軍が善通寺の師団
長であったとき、東京から
妻の静子夫人が面会に訪
れたが追い返されました、
その時、夫人が松の木の
下で途方にくれました。そ
の松が「乃木将軍妻返しの
松」として本堂手前右手にあります。ほかにも乃木将軍がこの寺で暮らしていた
ので、 様々な遺品が保存されています。
大師の像
願供養念珠
また、願を賭けながら引い
て回すと叶うという大きな数
珠(願供養念珠)もぶら下
がっています。
お参りを済ませ駐車場から
裏手の方向に歩く、国道31
9を左へ歩き右側のパチン
コヤの駐車場の間へ右折
して入る。すると遍路道は
田んぼの中の田舎道へでる。しばらく歩くと小さな交差点の左側の民家の一角
に地蔵堂があるこれが六条地蔵堂である。
六条地蔵堂
その横を通りぬけ国道11号の下を
通り抜けると工場が見えてくる、しかし田んぼの向こう
側で行けそうにないので右へ迂回する。すると大きな
神社の裏にでる。葛原正八幡神社と書いてある。神
社の横を通り過ぎ歩く。のどかな旧街道を進む。県道
205を横切り進むと豊原小学校がある。四国計測工
業の工場を通り過ぎると三叉路に信号機がある。次
の道を右折し最初の十字路を左折するとすぐに、標
識が現われ道隆寺にたどり着く。およそ1時間である
77番 桑多山 道隆寺という、寺の起源は奈良
時代と古いお寺であ る。
縁起では、この地に和気道隆という長者が住んでいました。道隆は広大な桑
園を持っていました。毎夜、桑園の中で不思議な光を放っている木があるとい
うことを聞いた道隆が、夜桑園に行ってみると、光っている桑の木がありました
。そこで、道隆が弓で射たところ、見事命中して、人が落ちる音がしました。か
けつけてみると、自分の乳母がたおれており、すでに息たえていました。悲し
んだ道隆が、この桑の木で薬師如来像を刻み、乳母の供養をすると、不思議
なことに、乳母が生き返ったのです。そこで、桑園の中に祠を建て、薬師如来
をお祀りししました。そして、乳母はそれからも長生きをし、近在の人々が、そ
の薬師如来をお参りに来たのが、道隆寺の始まりといわれています。
本堂
山門
後に子どもの朝裕が伽
藍を建立して道隆寺と
名づけたという。参道に
は数え切れないほどの
観音さまがお立ちである

眼なおし薬師と慕われ
ていますがこんな話が
伝わっています。
丸亀の京極左馬造は幼少より盲目だったが、この
お寺の薬師如来に祈願した
大師堂
多宝塔
ところ全快した。以後医学を学んで御典医となり、
眼病の達人と呼ばれるよう
にまでなった。死後、この
寺の潜徳院殿堂に祭られ、
多くの人が眼病平癒祈願
に訪れる。潜徳院殿は本
堂左手奥にあり、北門への
通り道である。
北門を出て県道21号を丸
亀城を目指し歩く。丸亀の
市役所辺りからお城は良く見えるようになる。市街地
を通り抜け土器川を渡ると、宇多津に着く。県道194を過ぎ地蔵堂から遍路道
に入り郷照寺をめざす。秋葉神社のまえの辻を右前にとる。浄泉寺のところで
右折れすると78番 仏光山 郷照寺に着く。
山門
本堂
開創当時は仏光山・道
場寺といっていました。 その後弘法大師が唐に
渡る時、この海上を通る
と夢の中に阿弥陀如来
が現われて、「唐から帰
ったらこの地にある1茎2
枝の巨木で如来と大師
の像を造って安置せよ」
とのお告げがありました。大師は帰朝後来られて
、枝が2つにわかれた大木を見付け2像を彫って本堂に安置して寺号を郷照
寺と改め78番札所に定めた。大師が42歳のときに自らの像を刻み、厄除けを
したことから、厄除けうたづ大師として宗派を超えて信仰を集めている。また、
中興された一遍上人にちなんで時宗、真言の2派を奉持している、88ヶ所唯
一のお寺である。
このお寺には庚申信仰、タヌキ神話がある。
中門の前に橋
万体観音堂

タヌキ神話はこんな話です
。昔、臨阿という心優しい
お坊さんが郷照寺にいた。
都に行くことになり、出発す
る数日前に、犬に追われて
いる子ダヌキを助けた。
傷の手当てをし、傷が治る
まで世話をして森に返した
。臨阿が都に行ってしまっ
た後の寺は、戦乱や飢餓のせいもあり、無住になることがあった。そのすきに
住み着こうとする悪人を追っ払ったのが、タヌキのお化けだった。以来、タヌキ
が寺を守ってくれたということで「常盤明神」という寺の守護神として祀られるよう
になったということです。そのせいか、このあたりでは、今でも犬を飼わないそう
お庭<
郷照寺からみた瀬戸大橋
です。また、この寺で
は毎日法話があり、
誰でも聞く事ができ
るという。当日も行わ
れていたが時間の都
合で聞かずに失礼
する。本堂は平成11
年に大修理が終わり
真新しい。
大師堂は石段を登った上にあり、横には万体
観音堂があり、中にはものずこい数の観音さま
が飾られている。
高台にあるため境内から、瀬戸大橋などが見渡せる。 参道を戻り旧街道の遍
路道を歩く、前から来た人がこの先の道を教えていただく。教えられた通りに進
む、やがて川を渡る、このあたりは昔は栄えていたのだろうか、大きな家が立ち
並ぶ。登坂を上がると右側にうどん屋があった。時間の都合で通り過ぎる。高
速の下を通り坂を下ると公園の中に遍路道はあり、まん中を横切る。その後は
真っすぐにどこまでも続く。境でのJRから一本北の通りである。町中を歩くこと
になり、アーケードの下もあった。駅前近くに通販で買っている醤油のカマタが
あり、記念館があったので見ようと表に回ったが祭日のせいか閉まっていてみ
れない。諦めて続きを歩く。
町中を出外れると、遍路道らしくなってくる。踏み切を渡り歩くとまもなく、
八十場の水
白峰宮
番外霊場 八十場の
に着く。元79番札所
といわれており、金山権
現を祀っている。
日本武尊が悪魚の毒に
あたって倒れた時に、横
潮明神がこの泉の水を
もって現われ、この霊水
を飲んで蘇生し、八十
八人の従者とともに、船を呑む悪魚を退治したと
いう伝説の水場である。本来は「弥蘇場」と書くそうです。
また、讃岐に流された崇徳天皇が崩御されたとき、夏だったので玉体確認の役
人が来るまで、この清水に棺を漬けておいたという。また写真の看板の右手に
はこの霊水で冷やした「ところてん」を売る清水屋がある。今日は祭日でお休み
だった。清水屋のHPはhttp://www.yasoba.com/aisatu.htmlです。
その後坂道を上ると白峰宮がある。元は崇徳天皇社といい明治の神仏分離で
白峰社となった。 お宮の参道とお寺の参道は兼用で
境内入口の鳥居
本堂
79番 金華山 高照院
に着く。ここまで1時間半で
ある。右手は納経所で山門
はなく赤い鳥居は入ってき
た反対方向にある。
この寺は、弘法大師が八十
場の泉の近くで霊感を得て
ほとりにあった木で十一面
観音菩薩を刻み、堂宇を
建立した。初めは妙成就寺
と名づけたと伝わる。崇徳天皇が崩御し、冷たい霊水に遺骸を浸したという。
大師堂
二条天皇が上皇の冥福を祈って崇徳上皇社を建立
し、天皇寺と改名した。
崇徳上皇社と天皇寺は分割され、崇徳上皇社は前
述のように白峰社となった。それまでは白峰宮が札
所であった。
ここから遍路道は、順打ちで、80番 国分寺へ向か
うほか、昔から一般に、松浦寺を経て、81番 白峯
寺、82番 根香寺を打ち、80番 国分寺へ降りる道
を選ぶ人も多かったというので、今回は81番へ向か
うことにする。赤い鳥居から左に出て下ると、JRの踏切がある(遍路専用と書
かれていた)。渡ると県道33号でラーメン屋さんがあるので食べようとしたが祭
日のせいかお休みで食べられず。肩の調子が悪いのでタクシーに乗るように
する。電話して少々時間が掛かりますと言われたが、まっているとしばらくすると
タクシーが止まる。これが呼んだタクシーだと思って乗り込む。後になって間違
いだったと分かる。呼んだタクシー会社から電話がかかってきた。乗ってしまっ
て大分進んだ後なので謝る。(坂出タクシーさんごめんなさい)
七棟門
本堂
白峯寺への道は県道1
80号になつているドライ
ブウェーである。右左と
曲がりながら山を登る、
この山を五色の名がつ
た五色台という。
簡保の宿の前を通り過
ぎると直ぐに
81番 綾
松山 白峯寺
である。
五色台の一つ白峰山にある。弘法大師が宝珠を
埋めて井戸を掘り、衆生済度を請願。のちに智証大師円珍が山の上の光を見
て来てみると、白髪の翁にここは霊地だと告げられ、千手観音菩薩を刻んで本
尊とし安置した。白髪の翁は白峯大権現だといわれている。
大師堂
境内の紅葉
崇徳天皇の廟所
もある由緒あるお寺で上皇
の悲話を伝える玉章木が
ある。悲話はこんなお話で
す--
保元の乱で讃岐に流された
崇徳天皇は、8月26日この
地で崩御された。都を想い
「啼けばきく、きけば都の恋
しさに、この里過ぎよ、山ほ
ととぎす」と詠まれたという。その上皇の心中を察して、玉章木で鳴いていたホト
トギスでさえ、木の葉を巻いてくちばしに入れ、鳴き声がもれないようしたという。
金毘羅山、八栗寺、と並び讃岐三大天狗といわれ、この白峰には相模坊という
天狗が住んでいたという。天狗にまつわる話も伝わっている。
お坊さんが豆腐を買いに出かけた時、空を飛んでいるような感覚がした。その
次の瞬間には元の場所に戻っていた。手にしていた木綿豆腐が上等な絹ごし
豆腐に変わっていたという。これはかわいそうに思った天狗の優しいいたずら
だと言い伝えられている。
入口の七棟門は国の重文で、高麗門の左右に2棟の塀を連ね棟が7棟ある。
境内は7棟門から入ると納経所の反対側に勅使門があり、その奥に廟所である
頓証寺殿があり、一段高いところに本堂、大師堂と並んでいる。ちょうど紅葉の
見ごろで写真を撮りに来ている人、見物に来ている人でごった返している。
タクシーに待ってもらっていた。 県道180を進むと
82番 青
山門
本堂
峰山 根香寺に着く。このお寺もバスなどで
駐車場にも入れない状態
で交通整理のガードマンま
で出ている。
この寺は五色台の一つ、青
峰山にある。縁起は智証大
師が四国を巡錫していたと
き、巨大な欅の木の下に白
猿を連れた山王権現が現
われた。大師は蓮華谷の香木で千手観世音菩薩を刻み、安置して千手院を
建立した。一方、弘法大師は華蔵院を創建。この二寺を総称して根香寺と号し
た。(千手観音を刻んだ木の根が芳香を放つていたため)
また、牛鬼伝説でも有名である。この話はこんな話です。
大師堂
昔むかしの、天正のころ、青峰山に牛鬼という化け物
が住んでいた。化け物は人びとを苦しめていた。弓
矢の名人である山田蔵人高清が退治するため待ち
構えていたが、なかなか出会えないので、根香寺の
本尊に祈願した。満願の日に牛鬼が現われ、口の中
へ矢を放った。牛鬼は悲鳴をあげて逃げ去った。後
を追いかけると西の定ケ淵で死んでいた。角を切り取
り冥福を祈ったという。今でもお寺にはその角と牛鬼
の絵が残されている。
見たい人は http://www1.plala.or.jp/negoro/usioni.html の根香寺のHPを
見てください。ネットで公開されています。
お参りを済ませ次の80番へ歩き出す。遍路道らしい道である。五色台みかん
園があり、鬼無方面と80番の国分寺、81番の白峯方面との分岐点である。
足尾大明神
19丁
県道180をしばらく歩くと右
側に足尾大明神がある。
お参りして歩く。県道から右
折する標識が出てきた、右
折するとまた遍路道になる
。しばらく下ると81番との
別れ道である19丁の標識
がでてくる。うっそうとした森
の中で木漏れ日に輝いて
いた。左に進路を取り進むと上りがあり県道を横断する。ここが一本松である。
横断し一路下る。池が見えてきたこれが神埼池だ。池の近くで遍路道を見失う
。池の周りを回ってお寺を目指し見当つけて歩くが分からない。家の前にいた
人に尋ねる。するとやはり近くまできていたのだが見つけられなかったのだ。
県道33号に出れば簡単に分かったようだが、近道を進んでいたようである。
松の枝振りがすごい
山門
中門の奥は大師堂
80番 白牛山 國分寺
やっと到着である。
ここまで2時間20分である
。この寺は、讃岐の國分寺
である。入母屋造りの本堂
と本尊の千手観世音菩薩、
銅鐘は国の重文。重文の
銅鐘に纏わるこんな話があ
る。昔、渕にすんでいた人
を食う大蛇を戸次八郎が退
治に出かけた。大蛇が鐘を被って顔を出すのでしとめられない。そこで本尊の
千手観音にお願いすると退治でき、その鐘はお寺に納めた。その後、寺の復
興に貢献した生駒氏は、この鐘を高松城の鐘にしようと
本堂
鐘楼
考えた。田んぼ1町歩と引き換えに手に入れたが
、重くて運ぶのも一苦労。
しかも鐘からは音もでず、
悪病が流行した。毎夜、夢
に帰りたいと泣く鐘が出て
きた。返すことになり、帰り
はなぜか軽く、戻ったとた
んに鳴るようになったという
。お参りを終わると時間的
に遅いので宿までタクシーで移動することにする。タクシーを国分駅で呼んで
乗りこむ。運転手はきららを知らないという。仕方ないので一宮寺でいいといっ
て送ってもらう。県道12号を横断歩道の手前の自転車屋さんの所を右折する
と学校の横が一宮寺の駐車場になっている。そこで降りて裏門は閉まっている
のでぐるっと左へ回る。夫婦連れが散歩してみえたので、きららを聞くと丁寧に
教えていただけた。迷わずに歩けた。あり難いことである。
本堂
場所は県道12号をもう少し進んだところにあった。田
村神社の前を通り、信号を渡ると左側に大きな駐車
場が出てくる。駐車場を通り温泉館へ入る。受付で予
約してあることを話すと宿帳みたいなものに名前など
を書く。お金はキップを自販機で買ってくださいとい
われる。食事はこの温泉館で食べてくださいとのこと
でした。食堂がありそこで食べることになる。泊まるの
は別棟になっている。昔は寄宿舎にでもなっていた
のだろうか? そんな感じの建物である。洗濯機があ
るので、洗濯する。まわして置いて、温泉館へ行く。温泉にまず入って疲れを
落とす。泊り客は何度入りにきてもらってもいいといわれている。風呂からでて
食事をする。今晩はメニューから選ぶことになるので好きなショウガ焼きを食べ
る。美味しかった。疲れが取れた気になった。サービースは何も無いが安くて
温泉なのがいい。温泉の客は祭日のためかすごく混んでいたが、大きな風呂
は暖まる。ここは穴場で機会があれば次回もここが良い。
   天然温泉きらら
宿泊先

天然温泉
きらら

電話番号:087-815-6622
     
住   所:高松市一宮町800-1
宿泊料金:4,750円 素泊まり(入湯含む)
部屋にトイレはない(和式)、
リピート度: ◎


11/24 晴れ気温17℃3日目讃岐うどんを今日こそ食べてみよう。

  天然温泉きらら→(83番)一宮寺→琴電一宮駅→瓦町乗換え→潟元→遍照院
  →食わずの梨→(84番)屋島寺→(番外)須崎寺→うどん本陣・山田家→(85番)
   八栗寺→(86番)志度寺→富士屋旅館


7時00分から温泉の建物の中の食堂で朝食
きららの朝食
 と言われていたが先を急ぎたい
ので頼んで10分前から食べさせてもらう。おかげで7
時10分頃には宿を出て歩き出せた。昨日温泉を探し
て歩いてきた道をもどるのである。交差点に讃岐の
国の一の宮である田村神社がある。この神社は水不
足に悩む讃岐平野で,湧き水を御神体として崇
敬される神社だという。
本殿の奥殿の床下に底な
しの淵「定水」があるといい,覗いた者は龍神の祟り
にあい,絶命するのだという。その田村神社の門の
前を通り過ぎ、斜めに入ってゆくと直ぐに83番 神毫
山 一宮寺
に着く。縁起によれば、義渕僧正が開き、はじめは大宝院と称し、
法相宗に所属していたが、諸国に一宮が建てられたとき、行基菩薩が堂塔を
修築し 
山門
本堂
、その後 弘法大師が この地に止まられて3尺5寸の聖観音菩薩立像
を刻んで本尊として安 置し
、真言宗に改めて堂塔を
補修 し、伽藍を整えて第8
3番の霊場に 定められまし
た。
境内には「地獄の釜」と呼
ばれる変わった形の石の
祠があります。この祠に頭
を入れ、自分自身を無に
すれば新しい境地がおのずと開けるといわれています。この祠には次のような
話があります。
地獄の釜
大師堂
昔、おタネという意地悪なおばあさんがいました。ある日、一宮
寺の地獄の釜の事を聞き、
そんなことはあるまい、ちょ
っと試してみようとお寺に行
きました。それは悪い事を
した人が地獄の釜の中に
頭を入れると閉まって抜け
なくなるというものでした。
おタネばあさんは恐る恐る
頭を入れてみました。する
と扉が閉まり、下の方から恐ろしい地獄の釜音が聞こえてきたのです。あわて
て頭を抜こうとしましたが、抜けません。とうとう涙を流し許しを乞うと、扉は開き
頭がすっと抜けたのです。それからおタネばあさんは心を入れかえ、人々から
親しまれるようになったということです。 この石の祠は薬師如来祠といいます。
しかし私の頭が入らないほど狭いものでした。
このお寺も本堂の右奥に建物を新築中でした。お参りをすませ琴電の一宮駅
まで歩く。裏の門を出ると学校があり登校時間と重なり沢山の子どもたちから声
を掛けられる。声をかけ合うということはすがすがしい気にしてくれる。駅へ着く
と列車がもうホームにいる。キップを買おうとまごまごしていると駅員さんが乗ら
れますかと聞かれ乗りますと答えると証明用の紙を渡してくれ、キップを買わな
いで急いで乗ってくれといわれる。電車を止めていてくれたおかげで一車早い
のに乗れた。通勤の人が多く混雑している。瓦町で志度線に乗り換え潟元へ。
屋根のような形からその名がついた屋島が見える。頂上は北嶺と南嶺に分け
られる。その南嶺の中央部に屋島寺がある。
潟元の駅を出ると遍路道で少し歩くと左折して県道14号を歩く池の畔から急坂
食わずの梨
御加持水
になる。遍照院が右手にあ
る。途中から県道は登山道
になり、舗装された道が続
く。途中に登山回数番付表
という看板も立っている。
横綱から前頭まで名前が
書かれている。途中には
島御加持水
が初めにあり
、その後に食わずの梨
いう番外霊場がある。とにかく歩いている人の多い所である。やはり歩くのがブ
ームになっているのだろうか。途中で追い越された男性は一日一回登るのを
日課にしていると言われた。多い人は一日に何回も登られる人も見えると言う。
山門
四天門
下から約1時間で84番 南
面山 屋島寺
に到着であ
る。寺宝になっている山門
を潜ると開けた景色がひろ
がり、四天門が現れる。階
段を上ると本堂である。こ
のお寺は源平の合戦場、
壇ノ浦を望む所に立つ。鑑
真和上の開祖でその後、
弘法大師が南嶺に伽藍を移転した。たった一夜で建立したという伝説がある。
本堂
大師堂
屋島寺といえば、狸で四国の狸の総大将・太三郎を祀る蓑山大明神が本堂の
右手に二匹の狸に守られ
て祀られている。また狸に
ついてはこんな話もありま
す。弘法大師が霧深い屋
島で道に迷われ蓑笠を着
た老人に山上まで案内され
たと言う。のちにその老人こそ屋島太三郎狸の変化術の姿であったと信じられ
ているという。弘法大師空海が屋島寺伽藍草創のおり「遍照金剛 三密行所当
都率尺 内院管門」と書き、宝珠と共に納め、その周りに池を掘ったの
蓑山大明神
血の池
がこの
瑠璃宝池。 源平合戦の時
に義経はじめ源氏の兵が
血のついた刀等を洗った
ので、池の水が真っ赤に
染まったことから(血の池)
とも呼ばれています。
お参りを済ませ血の池の横
の東屋で用足しをすませて
歩きだす。途中で壇ノ浦に
お住まいの人と一緒になり、下まで一緒に降りましょうと先導していただける。
おかげで速く降りれたし、道も迷わずに済んだ。いつも登って見えるようで歩く
速さは凄い、時々立ち止まっては待ってくださっている。降りた下の町でお別
れする。この先の歩く道もていねいに教えていただく。この時に八栗寺に登る
途中にうどんの美味いお店があるから、食べてゆかれたらと勧められる。時間
的にもちょうどいいのではと言われる。県道150号を進み、お好み焼き屋の角
で教えられた通りに左折する。橋を渡りスーパーマルナカの横を通り過ぎると
信号がある。これを真っすぐに横断し進むと須崎寺の標識がある。右折すると
すぐに
番外霊場 眺海山 洲崎寺である。
洲崎寺
本堂
このお寺は屋島の戦いで焦土と
なり、義経により堂宇の建
立をみたが、また兵火で焼
失した。その後当地に復建された。札所に通じる路傍
の堂として名高い霊場であ
る。また、源平合戦で佐藤
継信がひん死の時この寺
へ戸板に乗せられ運ばれ
てきたと言われている。
最近改築されたのか回りも真新しい。お参りしてもとの道に戻る。信号をすぎる
と左右に石屋が沢山るようになる。この先の山からはいい墓石になる石がでる
といわれ盛んに山を掘っている。牟礼北小学校を右手に見て右折し校門の前
から遍路道に入る。しばらく歩き直角に2回ほど曲がると駐車場が現われ、これ
を右折するとうどん屋さんの前にでる。教えられたうどん屋さんでうどん本陣・
山田家
という。大きな駐車場がありバスも来るといわれたのが納得できる。
山田家
五剣山
庭にも椅子やテーブルが
セットされていて食べられる
ようになっている。こんなう
どん屋さんは地元にはない
。ぶっかけといなり寿司を
食べたが500円である。こ
れだけの構えのお店なの
に安い。地元にもこんなお
店があるといいな---。汁も
私の好みにぴったりなのでお土産に買うことに決めて、送ってもらうようにお願
いする。帰って配った先から美味しかったと連絡があり通販でまた頼んだとも言
われたのでこれに決めてよかった。
食事後県道146号に出て歩く。しばらくすると急坂になつてくる。屋島のケーブ
ルは廃止になっているが、八栗寺のケーブルカーは現在も動いている。これは
商売繁盛に霊験があるとして「八栗の聖天さん」として毎月の命日には多くの参
拝客があるので残っていると屋島から一緒に降りた人が言って見えた。
山門
本堂
85番 五剣山 八
栗寺
にやっと着く。こ
の寺の縁起では大師
が天から五振りの剣
が降り、蔵王権現が
現われた。五剣を山
に埋め、山を五剣山
と名づけた。大地震
で東の峰が崩落し、
四つになったという。
また、山頂に登って四方を展望すれば八カ国が望めたので八国寺といわれた
が、大師が再びこの山に登り入唐求法の前効を試みるため植え置かれた焼栗
大師堂
歓喜堂
八つが帰朝後に成
長繁茂しているのを
見て八国寺を改め八
栗寺と呼ばれるよう
になったという。山門
から入った参道の正
面には歓喜堂が立
つ。本尊は木食以
空小人が後水尾天
皇の皇后東福門院
より賜った歓喜天(弘法大師作、丈15cmの黄金像)で和合と災いを除き
鳥居
多宝塔
、福徳
財宝をさずける商売繁盛
の天尊として有名で「聖天
様」と称されています。
また「さぬき三大天狗」と呼
ばれる「中将坊」が祀られ
る中将坊堂もある。鎌倉様
式の多宝塔が境内にあり、
中には大日如来坐像が安
置されていて、壁には曼
荼羅が描かれているという。次の86番に向かって歩くとケーブルカーの乗り場
があり、土産物屋が立ち並んでいる。鳥居もここに立っている。
六万寺
平賀源内遺品館
志度への遍路
道は県道145となっていて
舗装された下りの道である
。途中で六万寺への標識
で右折して下ると大谷池が
あらわれる。池の周りを回
って下る。高松 北校の真
新しい建物は左手にある。
この番外霊場は眉間山 
六万寺
といい、昔は檀家
六万戸を誇ったという。その威信を称して六万寺と改号したという。また、源平
合戦の際には安徳天皇の仮安在所とされた。
現在は寂れていて訪れる遍路さんも数が少なそうであった。
地蔵寺
その後高校をぐる
っと一回りして元の道へ戻り志度へ向かって歩く。こ
の学校は中高一貫校なのか中学校も同じ敷地内に
ある。坂道を下りきったところで一人で歩いてみえる
遍路さんに追い抜かれる。信号を2つ目が琴電とJR
とに挟まれた国道11にでる。この信号の前の駅はさ
ぬき牟礼という。左折して国道をしばらく進む。
2つ目の信号の十字路で左折し国道を離れる。旧街
道なのであろう両側に家が立ち並んでいる。国道と
海岸線とに挟まれた並行な道である。琴電原駅前を
過ぎるとまもな平賀源内邸が記念館として保存されている。写真は「ホルトの
木」である。それを過ぎると今度は左側に86番の奥の院である
番外霊場 如意
山 地蔵寺
がある。志度寺創建の薗子尼の屋敷であったところである。またの
名を魚霊堂という、昔、土佐に大魚が住み、横暴を働いていた。征伐を息子・
日本武尊に頼むと、尊は息子の霊子(れいし)を派遣することにした。霊子は5
00隻の軍船・千数百人の兵士で退治に出た。だが全て大魚に呑まれてしまっ
た。しかし霊子は大魚の腹の中で船に火をつけ、大魚はこれで死に、霊子は
腹を切り開いて志度浦に辿り着いた。里人は大魚の祟りを恐れてお堂を建て、
地蔵菩薩を祀った。これがこの地蔵堂だという。
左手に今晩泊まる富士屋旅館を見ながら町中を進む。そのまま進むと86番 
補陀落山 志度寺
である。
山門
円通寺
山門との間に円通寺がある。625年の創建と伝え
られる伝説豊かな古刹。寺
の縁起を伝える「志度寺縁
起」という掛け物が伝わって
いる。その縁起「海女の玉
取り」伝説まつわる墓が境
内にある。曲水式庭園もあ
る。「志度慈縁起」はこんな
お話である。
藤原不比等が興福寺を建
立するときに、妹が唐に伝わる3つの宝珠を送ってきた
大師堂
本堂
が志度の浦で難破し宝
珠を竜神に奪われて
しまった。
奪い返すために志度
にやってきた不比等
は、土地の海女を妻
とし、息子房前をもう
けた。房前を藤原の
世継ぎにするという
約束を取り付けた海
女は、自分の命も捨
てて竜神から宝珠を取り返した。妻を哀れ
海女の墓
五重塔
んだ不比等は海辺に墓と堂を築き
「死渡道場」と名づけた。 
のちに志度を訪れた房前
が母のために志度寺を建
てて、千基の供養塔を建て
たという。

また、志度寺本尊・薗子尼
の話としてこんな物語もあり
ます。継体天皇時代に近
江国の白蓮華谷に大きな
倒木があった。ある年に大洪水で大津に流れ着き、悪病が蔓延した。祟りが出
るといわれ「霊木」だと占われた。木は琵琶湖から宇治川・淀川を災いを起こし
ながら下り、ここ讃岐・志度の浦に流れ着いた。時代は下り、推古天皇時代に
志度浦桃樹庵に住む薗子尼がこの木を見つけ零感を感じ、草庵に持ち帰っ
た。そこへ若い者が現れ、十一面観音を彫らせてくれと申し出、一晩のうちに
彫り上げて姿を消した。願いは叶って仏像はでき上がったが、安置するお堂
がない。と思っていたら、大工が堂の建立を申し出てきて7日のうちに建立し、
どことなく消えた。この童子の名を黒丸王といい、閻魔王の化身、また薗子尼
は文殊菩薩の化身と云われる。本堂と、仁王門は国の重文。このお寺も大師
堂が工事中で中に入れなかった。納経所は本堂と大師堂との間にあった。
富士屋の夕食
ゆっくりお参りを済ませ明日乗るコミニティバス乗り場
を確かめに駅まで行く。済ませてコーヒー飲みにファ
ミリーレストランへ入る。コーヒー屋さん無いときは少
々味は落ちるかもしれないがこれが安くていい。
その後確かめておいた宿へ向かう。まだ誰もいない
ようである。一番風呂を頂く。探しても洗濯設備は無
いようなので今日の洗濯を諦める。
トイレは2階に女性専用のウォシュレットのついたも
のが1ヵ所ある。私たちの部屋は3階でした。
1階は寿司屋の店になっているので、夕食は部屋まで運んでくれる。暖房設備
のエヤコンの調子がおかしいと何回か頼んだが昨日も泊まられて何も言われな
かったと取り合ってくれない。夕食を運んできたときにまたしっこく言ったらやっ
とリモコンを他の部屋のものと交換してくれる。やはりリモコンの電池がきれて
いたのかその後は暖房が効くようになった。設備は今となっては少し古い。
泊まられる方の参考になればと辛口の批評です。
明日は女体山へ登らないといけないので早めに休む。
宿泊先

富士屋

電話番号:087-894-1175
   http://www.nett.ne.jp/fujiya/
住   所:さぬき市志度548-8
宿泊料金:7,000円 1泊2食付き
   トイレ(女性は洋式もあり)、洗濯機(無)、乾燥機(無)、
   (屋上にありと他の人が書いていたが?)
   一階ですし屋を営業
リピート度: ?

11/25 晴れ 気温16.8℃4日目八十窪まで頑張ろう
  富士屋旅館→JR志度駅からコミニティーバス→(87番)長尾寺→前山ダム→
  前山おへんろ交流サロン→道の駅ながお→来栖神社→女体山→(88番)大窪
  寺→八十窪

  5時に起きる。朝食は7時から一階のお店でする。食べて出かける支度をし、
7時30分に宿を出る。前半に時間の余裕を作って、ゆっくりと女体山に挑むこと
にするためにコミニティーバスで長尾まで行くことに決めた。予定変更である。
後でこれが正解になるとは------。

 
朝食
志度駅前で8時05分発に乗るために駅前の広場に
行く、我々より一回年をとられたおばあさんが話しか
けてみえる。これからバスに乗ってお墓参りにた出か
けるのだという。手には花を持って見える。人間は志
度に移ってきたが、お墓はまだ田舎にあるままなので
出かけるのだといわれる。おばあさんを見送りしばら
くすると我々が乗るバスも来た。養護学校へ通う子ど
もたちと乗り合わせる。彼らは障害にもめげず元気で
ある。バスは国道11を右折して県道3号を南下する。
途中でまた右折して新しい団地の中を通り、高速の側道に出てまた県道に戻
る。しはらく進むと今度は左折してオレンジタウンというJRの駅前に行く。もう1
度県道に戻るとその後はひたすら南下する。途中の香川東部養護学校で子ど
もたちは揃って降りる。長尾東の交差点でバスは右折したので運転手さんにお
願いして一番近いところのバス停でおろしてもらうように頼む。バス停から少し
進んで右に折れると87番 補陀落山 長尾寺である。門前の通りで小学生の
一団に会う。3年生で郊外学習に行くのだと元気な声で挨拶が返ってきた。前
後ついている引率の先生はその話をニコニコしながら聞いて見える。
山門
8時40分
到着である。

門前の経幢
仁王門には大草鞋が掛け
られている。大きさは4mも
あるという。また、門前の左
右には経幢が立つ。この仁
王門前に立っている経憧
(きょうどう)は蒙古来襲に
出征した将兵の霊を祀るた
めの写経を埋めた上に立
てた石柱で、重文だという。
朝まだ時間が早いせいか広々とした境内はひっそりとしている。
歩き遍路の夫婦連れ一組、ひとりで歩いている人が一人と我々だけである。
本堂
大師堂
 このお寺の縁起は、行基
が道端の柳の木で聖観音
菩薩を刻んで安置したの
が始まりという。
後に弘法大師が入唐の大
願成就を感謝し、大日経
一字一石の供養塔を建立
した。本尊は不思議にも度
重なる戦乱に巻き込まれた
が焼け残ったそうです。また、一年に何人かの人がどこの門からもこのお寺の
中に入れない人がいる。逆になかなか照られないこともあるそうです。そのとき
にはそれまで回ってきた札所の真言を唱えると、出ることが出きるといわれてい

静御前の剃髪塚
るそうだが、我々二人は無事に入りお参りもすること
ができた。
また、源義経の愛妾の静御前が出家して
尼さんになった寺としても有名である。
本堂の横に剃髪した髪の毛を埋めたという静御前剃
髪塚もある。その後、静御前は井戸中代庵を結んだ
。9時過ぎに用足しなどを済まし歩き始める。長尾寺
を左へ歩きすぐに右に折れた道をそのまま真っすぐ
に進む。途中広いバイパスの県道10号を横断すると
すぐにセルフうどんの入谷製麺がある。まだ時間的
に早いのでそのまま通り過ぎる。味の素の工場が右手奥に見えてくる。すると
小さな川(鴨部川)を渡った先に塚原という信号がある。そこで鴨部川沿いの
旧道(遍路道)に入る。
一心庵
高地蔵
旧へんろ道を歩くと一心庵(一心寺)という庵がある。
こじんまりとした庵で、印誉
意心法師の草創で本尊は
阿弥陀如来と立て札に書
かれていた。
同行二人では一心寺と書
かれているが表示は庵に
なっていた。そのまま歩くと
旧へんろ道から県道3号に
上がる直前にお地蔵様が
高いところから見てみえる。これが高地蔵という。台座の上に乗りおおよそ4m
もあるという。横には自然の巨岩に大師像を彫ったものをお堂で覆った大師堂
もある。これを過ぎると直ぐに、車道と合流(県道4号)した先にコーヒー屋さん(
パンジーという名前でした)があったので久しぶりにコーヒー飲みに入り休憩す
る。
前山ダムの堰堤
道の駅ながお
地元ではコーヒー屋さんは沢山在るがこちらではなかなか見当たらない。
遍路道沿いにないだけな
のでしょうか。30分ほど休
憩してまた歩き出す。
その後は県道の歩道を歩
くことになる。前山ダムはす
ぐにあった。ここで夫婦連
れハイカーにアメを接待で
いただく。ありがたく2人とも
いただく。
そのままダム湖の湖畔を進むとやがて道の駅ながおと前山おへんろ交流サロ
ンがあらわれる。湖畔側の
交流サロンへ立ち寄る。係りの女性がすぐに気が
つかれ奥へ入ってください、お茶出しますので中で休んでいってくださいと声
を掛けていただく。有難く言葉にあまえて入口のイスに
おへんろ交流サロン
交流サロンの内部
荷物を降ろして奥へ進
む、先客がありお茶をよば
れてみえる。この方は名古
屋の先の日進市から見え
ているという。
我々にもお茶とお菓子が
出てくる。頂いていると後ろ
で机に向かっていた人がノ
ートに住所と名前を書いて
くださいと言われる。
国際ロータリークラブ発行の「国八十八ヶ所遍路大使任命書」なるものを
四国八十八ヶ所遍路大使任命書

戴する。第671と672号で住所と名前が入って
いるので感激である。11時50分出発するが、こ
の先食事をするところが無いだろうと思い道の
駅でおにぎりを買い求める。
多和神社の方へ車道を進むつもりであったが
、右カーブの所で工事をしていてそこで下へ
降りてしまった。この道は前山ダムの北岸を歩
く健脚向きのコースに入ってしまったのだ。こ
れは太郎兵衛館に着くまで知らずにおかしい
と思いつつ歩く。川を渡り来栖神社を通り過ぎ
小さな小川沿いを進む。所々で昨年の台風の
爪跡を直す工事をしている。道なき道を進むようなところもあり途中でお昼にす
る。どこにでも包まれていたラップ類が捨てられている。このなところまで来るの
は遍路だけだと思われるので皆さんも気つけましょう。その後歩いていると太郎
兵衛館の標識があり位置を地図で確認して道が考えていたのと違っているのに
気づく。

遍路道
岩場の遍路道
女体山山頂の祠
車道を 2回横断すると最後の登りになる。山頂の手前の遍路道は岩場になっ
ていてはいつくばらないと歩けないほどである。背中に荷物があるからだろうけ
ど大袈裟ではない。女体山山頂(776m)には祠があり、お参りして下りかける
。しばらく下るとまた車道にでる。これも横断すると展望台があった。その後ひ
たすら下る。途中に奥の院の胎蔵峰があるが二百メートル奥へ歩く気が出な
いので、取りやめて下ることにする。やがて線香の匂いが漂ってくる。お寺が近
いことが感じとられる。やれやれである。
88番山門
遍路道の終わりはここ
14時15分にやっと88番 医王山 大
窪寺
に着く。遍路道の終
わりは二天門と本堂の間にでる。境内は紅葉が盛りで
多く人がいる。テレビ局もカ
メラをまわしているようだ。
今回は根香寺といい紅葉
の盛りにお参りすることが
出来てよかった。

結願のお寺である。行基が
草庵を建てたのが始まりで後に唐から帰った弘法大師が奥の院の胎蔵ヶ峰の
岩窟で秘法を修め、大きな窪のそばに堂宇を建て薬師如来像を刻み安置した

本堂
大師堂
。唐の恵果阿闍梨から授か
った三国伝来の錫杖を納
め結願寺と定めたといわれ
る。女性の入山が早くから
認められていたので、女人
高野として栄えたという。
ここの本尊である薬師如
来は壷ではなくほら貝を持
っていて、ほら貝でさまざま
な厄難病苦を吹き払ってくれるという。 二天門は紅葉で彩られていて女体山の
登りで疲れた体と気を蘇らせてくれました。

寶杖堂
二天門
納経所の階段の下には希
望すれば杖を奉納できる
所が設けられていて、ここ
で託せられた杖は大師堂
の右側にあるガラス張りの
寶杖堂に集められ1年に2
回行われ る紫灯護摩供で
供養される。菅笠も奉納で
きるとなっているが見かけ
なかった。紅葉や楓、大銀杏と、年月を経た広葉樹がたくさん植わっている敷
納経所前の杖納め所
境内の大銀杏
地内は、11月ともなれば鮮
やかな紅葉に彩られるそう
で、特に大銀杏の葉が散る
頃には、夜から朝にかけて
一面に黄金の絨毯が敷き
詰められるが、朝になると
きれいに掃かれてしまう。
黄金の絨毯を見るなら、早
朝に訪れるとよいという。
境内の大銀杏はもう葉を落とした後であった。地面はは葉で黄色に染まってい
る。
赤飯もある夕食
お参りを済ませ二天門を出るとお店があり、しょうが湯を接待される。あり
がたく頂く。疲れた体に染み渡る味であった。 八
十窪は少し下った所にあった。宿は女将と若い女
性(娘さん)で切り盛りしてみえるようだ。先客が到
着されていてお風呂に入ってみえたのでその後お
風呂をいただく。洗濯機も終わったのを知らせて
いただいて使わせてもらう。無料はありがたいの
だが乾燥機がないので困った。夕食にはネットで
調べた通りに女将さんの心づくしの赤飯が結願の
お祝いに出た。青い豆入りの赤飯で、マメも入っ
ているのは言葉にあやかるためなのでしょうか---?
今晩は歩きの人2人と、車の人3人と、我々である。車3人はすべて女性である
。10月の始めに歩き始めた人は、お酒が入ったせいなのか、またはもともと泣
き上戸なのか、涙を流して体験を話してみえる。一段落したところで、女将さん
に明日の予定を話す。6時半は用意できるが6時はダメと言われるので朝飯を
断って宿泊代を精算する。

宿泊先

八十窪


電話番号:0879-56-2031
   
住   所:さぬき市多和竹屋敷123-1
宿泊料金:6,000円 1泊1食(朝食なし)
トイレ(洋式)、お風呂のタオル、ハミガキセットあり、
リピート度: 次回は?


11/26 晴れ気温17.6℃5日目今日は頑張って和歌山まで
  八十窪→高速下→市場バスで学駅へ→(1番)霊山寺→南海フェリー→和歌山   市駅→ホテルへ

  5時起床。食事は6時30分以後しか用意できないと夕べ言われてたのでキャ
ンセルしておいた。5時45分ごろに宿を出て山を下る。大影小から出る一番の
バスに追い越されるまで歩くことにする。まだ暗いので車も少なく、時々懐中電
灯をつけて確認しながら山を下る。道は広くなったり狭くなったりである。きっと
掘っていたトンネルが開通すれば広くなってしまうのだろう。昨日の夜宿で調
べた市場町のバスは大影小学校前から出るようであるが、土日は早い時間の
バスがない。途中まで歩くことにする。地蔵堂を過ぎ、長野の分岐点に着く。
女将さんに教えていただいたように今回は右に歩く。そのまま歩くと三本松の
方へ歩ける。右に折れ日開谷川沿いに下る。遍路道は大影小の方へは行か
ず、川を渡った橋の向こう側で県道2号に合流する。歩いていても今朝は寒い
、体があたたまってこない。山間の道なので夜が明けても朝日は当たらず、ま
すます体が冷えて寒くなってくる。途中で自販機を見つけて温かい缶コーヒー
を買い求めて暖をとる。途中岩野トンネルの手前に立派なトイレと休憩所があ
ったのでしばし休憩する。採石場の大きなのが途中にありダンプがよく通るよ
うになった。歩いていると一人で歩いている遍路さんに追い越される。言葉を
かけると夕べ一緒だった人である。上喜来の信号で9時である。バスに追い越
されそうな時間までに高速を通り過ぎ町の中までたどり着く。大門のガソリンス
タンドで人を見かけたのでバス停の場所を訪ねてみると、どこででも手を挙げ
れば止まって乗せてくれるということでした。反対側の道を通るのでそこで待っ
ていてくれと言われたので待つことにする。その間に電話をかけて訪ねてくれて、もう直ぐ来ると教えに来てくれる。
3年ぶりの1番さん
開眼の念珠
スタンドの向かい側でバス
を止めて乗る。市場町の
市街地を抜けてバスは県
道125へと進む。阿波麻植
大橋を渡り川島町へ、国
道192を進み初めの信号
を右折すると直ぐにバスは
学駅へ着く。JRで学駅か
ら佐古で乗り換かる。ここ
で高徳線に乗り換え坂東駅へ行く。見慣れた景色である。歩いて1番さんへ、
懐かしい3年ぶりのご対面である。山門まえの信号機は前回あったのかな---
。こんな感じだったのかなと改めてよく見る。山門を入るといつものように賑や
かである。早速お参りしご加護を感謝する。その後お礼参りの納経をする。
満願の記念に平成17年より3年間、満願成就された方に、(毎年3万人)に、
開眼の腕念珠を授与されています。(これは夕べ八十窪で女将さんから聞い
ていた) おかげさまで私もいただけました。これは開眼の念珠(龍の目の菩
提樹)です。説明書には、飛龍の持つ天地創造の力、強い運と不老不死、そ
お礼参りの納経
歩き者の名簿
して五穀豊作を与える玉と
言われ、珍重されました。
と書かれています。
また、お礼参りの納経書に
書かれている言葉は、
「願行成圓(ガンギョウジョ
ウエン)」と書かれてあり、
その意味は『あなたが「前
世より願っていた仏の修
行」が円満に成就した。』と書かれているそうです。
納経所では満願成就者にはお茶のご接待がありありがたく頂く。また、出発時
に名前を書かせてもらったのでそのむねを申し出ると歩き名簿を出していただ
ける。机の上には今年分しかないので、平成15年分を出していただき自分た
ちの名前の欄の一番右側に今日の日付を書き込む。

私の名前の書いてあるところ
本堂
赤字で書くのでよく分か
るがまだ書かれているの
は数少なく、私のページ
はまだ4名ほどしか書か
れていなかった。なかな
か一巡りして戻ってくるの
は難しいことなのでしょう
か。または1番さんまで
はお礼参りに見えないと
言うことでしょうか。ここまでこれたことはご加護のおかげと改めて感謝する。
門前で記念の写真を初めの時と同じように二人並んで撮ろうと、二人連れを
探してお願いする。お礼に二人連れを写してお返しする。
大師堂
南海フエリー乗り場
時間があるつもりだったが列
車の時間が迫っているので
急ぎ足で板東駅へ戻る。徳
島駅で遅い昼飯を食べる。
食べてからタクシーで南海フ
ェリー乗り場まで移動する。こ
のフェリーは高速艇でないの
で和歌山港まで2時間かかる
という。船の中では皆横になってゆったりしているが、こちらは馴れないせいか
横になると気分が悪くなる。温かいお茶やコーヒーを飲んでしばし寛ぐ。
和歌山城
和歌山港からは南海電車の乗り場まで通路が繋が
っている。雨でも濡れずに移動できる。電車で和歌
山市駅へ行き、駅の中のデパートで夕飯と朝飯を買
い求めてホテルを目指す。分かりにくいところなので
コンビニに入って訪ねる。
市街地の中心部で県庁や市役所が近くにある。お
城もすぐ横にあり、部屋は7階でお城側なので夜は
ライトアップされたお城が良く見えた。
ビシネスホテルはドアーを閉めれば自分の家と同じ
で自分の世界であるが、コインランドリーなどの設備が無いのが遍路としては
不自由である。

  
宿泊先

和歌山
東急イン

電話番号:073-423-0109

住   所:和歌山市南汀丁18番地
宿泊料金:11,550円 (素泊まり)、ビジネスなのでタオル類
やハミガキ、カミソリはあり
トイレ(洋式)、
リピート度: ○


11/27 晴れのち雨 気温15℃ 6日目予定より大幅に時間がかかった町石道。
  和歌山東急イン→女人高野・慈尊院→丹生官省符神社→展望台→雨引山分
  岐→六本杉峠→二ツ鳥居→笠木峠→矢立→大門→根本大塔→
清浄心院
   

  5時に起きて朝食に夕べ買っておいたオニギリを分けて食べる。7時にチェッ
クアウトする。和歌山市駅まで歩く、途中のコンビニでお昼のおにぎりを買い求
める。和歌山で乗り換えて高野口を目指す。8時55分に到着。用足しして歩き
はじめ
万年山 慈尊院まで30分ほどかかった。有吉佐和子の小説「紀ノ川」
に登場し広く知られたところである。開基は
山門
本堂
弘仁7年(816)、弘法大師が高野山
開創の際、参詣の要所に
当るこの地に、表玄関とし
ての伽藍を創建、高野山
の庶務を司る政所を置き、
高野山への宿所、冬期避
寒修行の場とした。  
弘法大師の母は大師の郷
、香川県善通寺より、大師
の開いた高野山が一目見
たいと、その高齢をおしてここまで来られた。しかし当
時の高野山は七里四方が
大師堂
大師母公廟
女人禁制であったため、ここに滞在され、御本尊弥
勒菩薩を深く信仰された。
承和2年(835)2月5日、母
は入滅された。そのとき、
弘法大師は弥勒菩薩の霊
夢を見られたため、廟堂を
建て、自作の弥勒菩薩像と
母の霊を祀った。
弥勒菩薩は別名慈尊という
ことからここを慈尊院と呼
ぶようになったという。また、大師は月に9度は必ず山道を下って、母を尋ねら
慈尊院の納経書
れたので、この地の名前を九度山という。
母は御本尊の弥勒菩薩を熱心に崇拝されていたの
で、入滅して御本尊に化身されたという話が広まり、
別名女人高野の名がある。女人高野は他に奈良県
室生村室生寺、大阪府河内長野市金剛寺 、三重県
勢和村神宮寺などがある。      
大師堂、弥勒堂、多宝塔などがあります。弥勒堂と
は(廟)は母の没後、信仰の篤かった弥勒菩薩像と共
に太師が創建された廟です。
今でも子宝安産、育児、授乳等を願い、乳房型絵馬を奉納、祈願した。また髪
の毛をお供して、病気平癒を祈る人が絶えない。また、こんな言い伝えも残る。
高野山詣りは、高野山の玄関である慈尊院弥勒菩薩とご縁を結び罪障を流し
弥勒堂
丹生神社を望む
てから山上へ登って頂くの
が高野山への本参りである
と書かれています。
大師の言葉に「我に十度礼
せんよりは、我が母に九度
礼をとげよ」。
境内から真っすぐ前を見る
と階段があり、それが丹生
官省符神社です。弘法大
師が慈尊院創建のときその鎮守として造られた神社です。丹生都比売、高野厨
子がお祀りされています。
始まりを示す180町石
弥勒堂が現在の位置に移された際、丹生官省符神
社も一段高い神楽尾山(かぐらおやま)へ移転しまし
た。本殿3棟は、木造一間社春日造り、桧皮葺、極
彩色北面です。室町時代末期のすぐれた遺構で細
部の彫刻には見るべきものがあります。
最初の町石、180町石は神社石段の途中にありま
す。町石とは大師が高野山参拝者の案内に一町=
109m毎に立てられた道標で、慈尊院を基点として
奥の院・根本大塔まで続き数は180本です。胎蔵界
180尊にあて、さらに大塔から奥の院まで36町石を建
て、金剛界37尊とした。建てられたときは 木製でしたが鎌倉時代に御影石の
高さ3mを超す五輪型卒塔婆に立替られました。七つの登山道が在ったといわ
案内板
社殿

れ、町石道は大師よつて
開かれた初期の道と言わ
れています。この道が高野
山への表参道で、高野山
町石道といわれ、約千年の
間、信仰の道として人々に
より歩き継がれてきました。
現在では、年間を通じて参
詣道として、またハイキング
コースとして、歩かれています。
 町石道のハイキングコースの案内は南海のHP、を参考に見てください。
      http://www.nankai.co.jp/koyasan で地図のコピーもできます。
パンフレットによると距離約23.5km・所要時間約7時間10分となっています。
神社にもお参りして境内を出ると勝利寺の下に出る、休憩所とトイレがあり身支
度していざ出発です。展望台までは急な坂道を進みます。道は舗装されてい
まし、案内板がところどころに整備されていて道に迷うようなことはない。
休憩所で一緒になったハイキングの人と共に登る。彼らは案内人(語り部)を同
行されていて説明が道中で聞けそうです。こちらは先を急ぐので途中で別れ先
に進む。展望台から柿畑の中を歩きます、町石道が農作業にも使われている。
下には紀ノ川が見渡せるようになります。雨引山分岐の少し前からは杉林の中
を歩くことになり、これは最後まで続く。雨引山分岐を過ぎるとしばらく平坦な道
に変わる。一里石を通り過ぎ歩くと石段が現われ、石段を登ると六本杉峠であ
る。六本杉というから杉の木が6本あるのかと思ったら、杉の木はたくさんあ
六本杉峠
二ツ鳥居
る。ここを通り過ぎた頃に
大きな雷が一つ鳴つた。心
配していたら、まもなく雨が
降ってき出した。しかし、杉
林の中を歩いているので助
かる。古峠を過ぎた展望台
まで行くと横降りの雨になる
。展望台は屋根があるが先
客で一杯である。彼らはガ
スコンロでお湯を沸かして昼飯の用意をしている。入れないので木の陰でカッパ
を出して着る。隣が二ツ鳥居で鳥居が2基あるので二ツ鳥居と言うのだ。この
鳥居は両部鳥居といい、神仏習合で栄えた神社に多い四脚の稚児柱と柱頭
に台輪がある形式で、日本の三大鳥居に数えられる厳島神社、春日大社も同
じ形式の鳥居である。
紀ノ川を望む
白蛇の岩と鳥居
遍路道
さらに進むと白蛇の岩と鳥居が現れる。.垂迹岩(すいじゃくいわ)と言い、こん
な話が伝わっています。
この岩の隙間に入り込もうとしていた蛇を、杖でつついて驚かせた僧が、丹生
都比売神社からの帰途、この岩の前を通ると白い大蛇が岩の上の木に巻き付
いて待ち構えていたという。僧は自分の非を悟り、丹生都比売神社でご祈祷を
して戻って見ると、大蛇はすでに消えていたといいます。
そのまま歩くと、突然この世に引き戻される。紀伊高原カントリークラブの芝生
が見えてきます。フルバックのティが遍路道をはさんで反対側にある。やがて
神田地蔵堂
押し上げ石
応碁池が現われると、横笛
が出家後、滝口入道に一
目会いたさにこの堂に来て
入道を待ったという、神田
地蔵堂につきます。横笛の
恋の物語はこんなです。
平清盛の宴で雑司「横笛」
の舞「春鶯転」を見た平家
一門の「滝口時頼(滝口入
道)」は横笛に恋をしました。恋文を送る時頼でしたが横笛からの恋文の返事
はなく、時頼は横笛への想いを断ち切る為に嵯峨野の地で出家します。一方
舞台以来、毎日たくさんの恋文を受け取る横笛でしたが時頼の手紙だけには
心惹かれるものがありました。その後横笛は奈良の法華寺で尼僧となり修行に
研鑚しますが、ある日時頼が高野山で修行をしていることを知ります。横笛は
女人禁制の高野山の山麓、天野の里(神田地蔵堂)へ移り時頼に会える日を
待ちますが重い病にかかり、時頼に会えないまま19歳という若さで死を迎えまし
た。自らの後を追って出家し、天野の里で会いたいと涙にくれて死んでいった
横笛のことを忘れたことはありませんでした。大円院八代住職に就いた滝口入
道は部屋から庭先の古梅の木に止まる鶯に気がつきました。鶯は止まり鳴きも
せず、ただじっと滝口入道を見つめています。目が合い滝口入道がハッとした
瞬間、鶯は枝から離れ弱々しげに羽ばたき井戸に落ちてしまいました。
滝口入道は井戸から鶯をすくいあげ亡がらを胎内に納めた後、阿弥陀如来を
彫りました。大円院の本尊鶯阿弥陀如来がその仏像です。
地蔵堂の本尊は子安地蔵尊です。 地蔵堂を通り過ぎた杉林の中で昼飯にす
る。
その後しばらく平坦な道が続き、右側にはコースがあります。登り坂になる
と直ぐに笠木峠につきます。その後ダラダラと下りになり、左には高圧鉄塔が
見えてきます。三里石を過ぎると坂も急になり、左の谷には金網が張られてい
るようになります。するとやがて矢立てに着きます。町石道を下り切ると、国道4
80号との合流点です。
矢立
大門
時間はすでに14時10分を過ぎている。いるところで、
公衆便所やガソリンスタン
ド、信号機などがある交差
点である。国道も右へは37
9号で、左へは480号で高
野山へ行く。向かいには矢
立茶家がある。ここの焼き
餅は名物というがなにせ時間がない。時間が掛かり過
ぎていて大門まで2時間以
内で行かないと---。用足をしてカッパを脱ぎ国道を横断し、民家と民家の間
の舗装路を歩るく。登りはじめはいっもきまって急坂である。ほどなく袈裟掛石
に着く。
この石のいわれはこんな話です。
高野山は明治時代までは女人禁制でした。弘法大師の母君、阿刀氏はある
日、禁を破って五十四町石あたりまで登山してきました。ここより先は入れませ
んと大師がいくら説明しても母は聞き入れません。そこで大師は石に袈裟をか
け「ここを越えられますか」と言いました。母が飛び越えようとすると突如雷鳴が
とどろき、火の雨が降ってきました。驚いた大師はとっさに岩を手で押上げ、そ
の影に母をかくまいました。五十四町石の先にあるその岩には今も大師の手
形が残っているといわれているが、石の表面は苔などで覆われて良く分からな
い。また、ここからが高野山の清浄結界とされるゆえんだそうです。石の下をく
ぐると長生きするといわれ、くぐり石とも呼ばれています。
次に国道が表れ横断すると展望台である。ここからの展望はすばらしく、遠くは
淡路島まで見えるというが今日は生憎の雨である。展望台を下りて歩くとまた国
道と出会うがすぐに遍路道に分かれる。すぐの34町石が倒れたままになってい
る。道中で倒れているのはここだけであつた。
しばらくすると川が現れてそれに沿って登ると
木で出来た階段が表れ、それを
上がりきると舗装の車道にでる。左側を見ると、とてもなく大きな赤い建物が目
に入る、これが目指してきた大門なのだ。大門は高野山一山の総門で、高さ
25.8m、法橋運長作の金剛力士像を左右に安置した重層の楼門。
時間はもう15時55分になっている。その後7分ほどで根本大塔つく、一の町
石を探して境内に入る。お参りは明日にしよう。あったあった一の町石である。
180の道標をたどって、高野山まで登ってきたのである。
1町石は大塔と愛染堂の間に
感想はとにかく遠い2
0劼任△襦
その後宿を目指し歩く。
清浄心院
やっと一の橋である。橋の
手前左側が今晩の宿で
ある
清浄心院である。若
い坊さんが迎えてくれ、杖
を洗うと真しいタオルをも
ってきてくれた。杖は部屋
まで持っていってください
といわれる。今晩のお泊
りは我々二人と外国の女性と、その子どもだけだとい
われる。建物は桧皮葺の屋根で古いのが良く分か
る。風呂は高野槙で作られた大浴場ではなく、小さな風呂であった。
部屋の窓から外を見ると立派な庭が作られている。夕食は5時半からといわれ
呼びにまいりますといわれた。
暖房は石油ファンヒーターとやぐらこたつであ
る。夏はクーラーも無いようなので扇風機なのだろう。

   庭            名本傘桜      廿日大師門       夜のお膳
  このお寺の縁起は弘法大師により開かれ院号も勅名である。本尊の廿日大
師像は大師入定の前日自ら彫造開眼せられた姿である。
諸代大名の檀主20家あまりを持っており、山内では最も大きな寺院であるとい
う。特に滝口入道を初め豊臣秀吉、徳川家康など檀契が深い。
宿泊先

清浄心院


電話番号:0736-56-2006

住   所:高野山町高野山566
宿泊料金:10,000円 1泊2食付き、タオル、湯上げ、ハミガキセットあり、
トイレ(洋式、ウオシュレット付き)
リピート度:考える


11/28 7日目何とか皆様のおかげで結願できました。有難いことです。 またいつか歩けれるようにしたいものです。
   清浄心院→高野山奥の院→金剛峯寺→壇上伽藍→自宅へ

 5時に起床。朝のお勤めは霊牌堂で6時30分からである、外人の親子2人も列
席している。その後朝食。準備が出来たので会計をお願いして支払う、安かっ
たか高か
朝食
ったのかは分からない、泊まった人の感覚だけである。8時過ぎに奥
の院に向かう。35分ぐらいで着いたがすでに団体客
でごった返している状態である。
奥の院は、一の橋から弘法大師の御廟までの約2k
mの浄域で、ここで身心をととのえ礼拝しましょう。こ
の一の橋から奥の院までの参道の両側には何百年
も経た老杉がそびえている。 大杉林の中に数十万
基にも及ぶ墓群があります。
大師腰掛石を過ぎ、中の橋を渡ると左側に汗かき地
蔵と姿見の井戸があります。このお地蔵さんは不思
議なお地蔵さんで、身の丈2尺(約60.6センチ)余りの五輪形の石に汗かき地
蔵とよばれる地蔵尊が彫られています。この地蔵さんは毎日巳の刻(今の午前
9時〜11時)になると必ず汗を流すといわれます。この地蔵さんは死者が冥土
に赴いて地獄の閻魔から裁きをうけ、ひどい苦しみに遭う
中ノ橋の汗かき地蔵
姿見の井戸
ことから救ってくださ
っているために、その苦労
が汗になって流れているの
だといわれています。また、
汗かき地蔵の右側に古い
小さな井戸があり、大師が
掘った井戸と伝えられてい
ます。高野山では姿見の
井戸とよばれ、この井戸を
のぞきこんで、自分の顔が
写らなければ3年以内に死んでしまうという…。
芭蕉の句碑
御廟橋
御廟橋を一礼して渡り奥の
院へ。この橋は玉川清流に
架けられた橋で、別名「無
明の橋」とも言われます。板
石は36枚で、橋そのものを
1尊とし、金剛界37尊をあ
らわしています。この橋を渡
ると仏の浄土に往き、罪煩
悩が取り除かれると信じら
れて、
橋を渡ると弘法大師が衆生済度のために入定された霊域に入ります。
参道正面の石段の上に燈籠堂があり、御廟の前堂として真然が創建したもの
である。燈籠堂から左廻りに裏側の御廟、(御廟は大師信仰の中心聖地です。
転軸、楊柳、摩尼の三山に囲まれた台地にあり、その山裾を清流玉川が流れ
ています)、
燈籠堂の地下(こもった大師の目線と同じ高さなるところ)の三ヶ所
にお参りします。燈籠堂はお照という貧しい娘が髪を売って両親の菩提のため
に献じた祈親燈の「貧女の一灯」が有名。白河天皇が献燈された「白河燈」、こ
の二燈は一千年来燃え続けています。また、昭和天皇から献上された「昭和燈
」を合わせた三燈は常明燈とよばれています。御廟は燈籠堂の奥にあり、弘法
大師空海の眠る場所です。中に入ることは出来ませんので御廟前からお祈りし
ます。その後ぐるっと回って燈籠堂の地下に階段をおります。祭壇があり眼を
凝らすとお姿が見えてくるといいます。

水向地蔵
奥の院納経書
水向場の隣にある御供所(
毎日弘法大師空海への食
事が作られている場所)で
納経を頂く。ここはお守りな
どを売っている。その横か
ら奥に入るとお茶が無料で
飲める休憩所もある。ただしセルフサービスです。

その後バスで千手院橋へ行き、歩いて総本山金剛峯寺へ、
総本山金剛峯寺山門
本堂
金剛峯寺はもともと高野山全
体の寺号ですが、明治時代以
降、高野山の有力寺院の合併
によって現在地に初めて単体
で金剛峯寺を名乗る寺院が誕
生しました。これが現在の高野
山真言宗の総本山「金剛峯寺
」なのです。
豊臣秀吉が慈母の菩提追善
のために建立したお寺である。現在は高野山真言宗の総本山として宗門行政
かご塀
六時の鐘
の府となっている。主殿は、
東西30間、南北35間の大
建築で、大広間には狩野
探幽の襖絵『松に群鶴』が
、また豊臣秀次が自刃した
という柳の間には狩野探斉
の襖絵『雪柳白鷺』が描か
れています。六時の鐘は
伽藍の入口の高い石垣の
上に有ります。福島正則が父母の追善菩提を祈って元和4年に建立したもので
す。隣の壇上伽藍へは歩いて移動する。真言密教の大伽藍で、壇上とは大日
如来が鎮座する壇、または修行の道場を意味します。大日如来を中心とした
金堂
根本大塔
密教の教義や世界観を建
造物や仏像、仏画によって
目に見える形で表現しよう
としたのがこの伽藍なので
す。御願堂とか薬師堂とも
呼ばれ、いつしか俗称の金
堂が通り名となりました。金
堂は伽藍の中央にある高
野山一山の総本堂で、弘
法大師によって創建され、高野山の主な法会はここでとりおこなわれます。
なぜこの地に造られたかはこんな話があります。
弘法大師はここで白と黒の犬二頭を従えた猟師と出会い、三鈷杵の落ちたと
ころ、すなわち現在の高野山上まで導かれたと伝えられます。この猟師、実は
高野山一帯の地主神・丹生都比売明神の御子神である狩場明神の化身であ
ったのです。 高野山にたどり着くと、三鈷杵は松の木の枝にひっかかっていま
した。以来この松は三鈷杵と同じく三つ葉をもつようになったのだそうで、三鈷
の松として今もその子孫が壇上伽藍の御影堂の前に植えられています。  ここ
は大師が真言密教の根本道場として最初に開かれた聖地である。このような
場所がなぜ必要だつたのかは真言密教の教えにあります。
その教えに「身口意の三密」があり、
  ・ 一 身密 手に印(手を様々な形に組み、仏を象徴する)を結ぶ
  ・ 二 口密 口に真言(短い呪文)を唱える      
  ・ 三 意密 心を三摩地(精神統一された状態、三昧ともいう)に置く
この3つを一体化すれば即身成仏できると説かれています。
高野山についてはHPで詳しく書かれています。 http://www.koyasan.or.jp/
をみてください。
お参り後千手院橋へ戻りバスで高野山駅へ行く、南海電車で難波までもどる。
地下鉄で新大阪へ、昼食たべてから新幹線で自宅へもどる。
これで4回目の区切り打ちも無事終了で、1回目の遍路が終わったことになる。
親切な皆さんに助けられてなんとか結願できました。こんどいつか全部歩いて
回ってみたいと思っています。
  


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