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生きているのでは無い、生かされているのだ
(山田無文)

この言葉を求めて遍路の旅に

はじめに                                                  
            四国遍路の目的はなにか
         悟りの境地とは
ご結縁開帳の意義
                先へ先へと急ぐばかりが能ではない 
     


四国遍路の意義 は何か--道中修行することに意義がある
      『願いからこうしていられる自分に感謝する心へ』

 心を磨き、高めることを問われています。心を良い方向に高めて、能力のみならず人格ある人間を、賢い人間であるだけでなく正しい人間をめざすべきであるのは、どんな人でも変わりありません。
それは生きる目的、人生の意義そのものであるといってもいい。
私たちの人生とは、私たちの人間性を高めるためのプロセスにほかならないからです。心を高めるということは、いったいどういうことなのでしょうか。それは、けっして悟りの境地、いわば至高の善的来境地に達するなどという、むずかしい話ではなく、生まれたときよりも少しでも美しい心になって死んでいくことではないかと思います。生まれたときよりは死ぬときの魂のほうが少しは進歩した、少しは心が磨かれたという状態。それは、身勝手で感情的な自我が抑えられ、心の安らぎを覚え、やさしい思いやりの心がしだいに芽生え、わずかなりとも利他の心が生まれるというような状態です。また、そのような美しい心へと、もって生まれた自分の心を変化させていくことが、われわれが生きる目的です。宇宙のとてつもなく長い歴史からすれば、わずかな一閃にすぎないかもしれない。その一瞬に満たない生の始まりよりは終りの価値を高めることに、われわれの生の意義も目的もある。もっといえば、そうであろうと勤める過程そのものに人間の尊さがあり、生の本質があるのだと思います。さまざまに苦を味わい、悲しみ、悩み、もがきながらも、生きる喜び、楽しみも知り、幸福を手に入れる。そのようなもろもろの様相をくり返しながら、一度きりしかない現世の生を懸命に生きていく。その体験、その過程を磨き砂としておのれの心を磨き上げ、人生を行きはじめたころの魂よりも、その幕を閉じようとするときの魂のありようをわずかなりとも高める---それができれば、それだけでわれわれの人生は十分に生きた価値があるというものです。
この心を磨く指針として、「六つの精進」が大切ではないかと思い、まわりの人に説いてきました。
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人よりも多く研鑽する。また、それをひたむきに継続すること。
不平不満をいうひまがあったら、一センチでも前へ進み、向上するように努める。
謙虚にして驕らず
「謙は益を受く」という中国の古典どおり、謙虚な心が幸福を呼び、魂を浄化させることにもつながっていく。
H疹覆△詁々を送る
日々の自分の行動や心のありようを点検して、自分のことだけを考えていないか、卑怯な振る舞いはないかなど、自省自戒して、改めるよう努める。
だ犬るいることに感謝する
生きているだけで幸せだと考えて、どんな小さなことにも感謝する心を育てる。
チ厩圈⇒他行を積む
「積善の家に余慶あり」。善を行い、他を利する、思いやりある言動を心がける。そのような善行を積んだ人にはよい報いがある。
Υ鏡的な悩みをしない
いつまでも不平をいったり、してもしかたのない心配にとらわれたり、くよくよと悩んでいてはいけない。そのためにも、後悔をしないようなくらい、全身全霊を傾けて取り組むことが大切である。
 これらの「六つの精進」を自分にいい聞かせ、実践するよう心がけましょう。


凡夫は悟りに達することができるのか ?
        「いくら修行に努めようが、私たち凡夫はついに悟りに達することはできないだろう。普通の人間が梧達の境地を得ることはしょせん不可能である。」
どれほど持戒に努め、精進を重ね、何百時間座禅を組もうと、私は悟りに届くことはできない。
 意思が弱く、煩悩から完全に離れることができない人間は、心を磨くためにいくら善きことを行おうとしても、私欲を完全になくし、つねに利他の思いをもちつづけることはできないでしょう。どれほど持戒に努めても破戒から逃げられない。私を含め、人間とはそれほど愚かで不完全な存在なのです。
しかし、それでいいのだということも私はよく理解しました。そうであろうと努めながら、ついにそうであることはできない。しかしそうであろうと努めること、それ自体が尊いのだということです。戒めを十全には守れなくても、守ろうとする気持ち。守らなくてはいけないと思う気持ち。守れなかったことを真摯に自省、自戒する気持ち。そうした思いこそが大事であって、そのような心をもって毎日を生きていくことが、悟りに至らないまでも、十分に心を磨くことにつながり、救いにも通じる。
 神や仏は、あるいは宇宙の意志は、何事かをなした人を愛するのではありません。何事かをなそうと努める人を愛するのです。なそうとしてなせない、おのれの力の至らなさを反省し、また明日から、なそうと倦まず弛まず努める。そういう人こそを救ってくださるのです。
守ろう、なそうと努めるだけで心が磨かれるのか。それで私たちは救われるのか。つまり心を高めようとする思いや、その行いの過程こそが尊く、それによって心は磨かれているのです。なぜならそれは、
仏の慈悲にかない、宇宙の意志に沿う行為であるからにほかなりません。 

  稲盛和夫著−−−−−生き方より


覚醒 結縁ご開帳の心
観音様は最も慈悲が深い仏であり、様々な人の姿を借りて困っている人を助 けると説かれています。実は慈悲の心というものは、観音様ほど大きくなく ても、自分の心の中にもちゃんと存在しているものでもあります。悲しいか な、便利さやわがままの実現ばかりを追求している現代の風潮の中で、だん だん気が付かなくなっているのであります。 結縁開帳を通じて、観世音菩薩様のご宝前に立ち、静かに自分の心を見つめ る時、一人はひとりの自分の心の中のこの存在に気が付く事が出来るはずな のです。 そうなのです。観音様は実は普くおわします。あなたのすぐ横にいる人が 観音様であるということに気付く、そうすればあなた自身もそうであること に気付くはずなのです。仏像だけが教えてくれるのではありません。いつで もどこでも、誰からでも学べるものなのです。そうすればおのずと謙虚さが 生まれてくるものです。ですから仏様の前だけで謙虚であってはなりません 。すべての人に尊敬と感謝の気持ちを貫かねばならないのです。つまり、私 たちの心が観音様の心とひとつに繋がるとき、本来あるべき人間の心を取り 戻し得るのです。このことが、この乱れた世相を正す事に不可欠なのであり ます。                    西国三十三所札所会パンフレットより
                 HPはhttp://www.saikoku33.gr.jp です。
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