11/25 晴れ気温23℃通算10日目 今晩は人の良い女将さんの待つ喜久屋泊まりだ
ホテルサンルート→(33番)雪蹊寺→(34番)種間寺→喜久屋旅館→(36番)青龍寺→(35番)清瀧寺→喜久屋旅館
出発の準備をして7時15分に宿を出て、堺町のバス停へ歩く。途中はりまや
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はりまや橋
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橋がある。夕べ宿で場所を確認しておいたのでよかった。今日一日のコースを考えるのには高知県交通さんに大変お世話になりました。メールでバスの時刻を訪ねたら関係する路線の時刻表を10枚もFAXいただきました。またアドバイスもいただき大変ありがたかったです。堺町バス停を7時35分発で長浜出張所まで乗る。降りるときに入るところを教えていただく。降りた県道34を少し進むと信号があり右折する。右折した道は県道278だが道幅は狭いし歩道もないので歩いていると危険を感じる。10分ほどで右側に33番 雪蹊寺に着く。市中のお寺で駐車場も少ない。大師が開基したといわれ、大師自ら刻んだ大師像がある。初めは高福寺と称していたが、その後長宗我部元親が寺を保護することになり、元親の死後、元親の号にちなみ雪蹊寺となった。
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太玄塔
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また本尊の薬師如来坐像ほか脇侍の日光・月光菩薩、毘沙門天、吉祥天像、善膩師童子は国の重要文化財。明治の廃仏毀釈で廃寺になったが、山本太玄が再興、その弟子・玄峰は若いころ視力を失い眼病祈願をして裸足で巡拝していた。7回目に行き倒れになり太玄に救われ「心眼を開け」のひと言で出家した。出家ご多くの寺を復興させた。境内右手入り口に立つ太玄塔は玄峰が太玄和尚を讃えて立てたもの。この話にあやかろうと眼病平癒に訪れる人が多い。次の34番へは時間の都合でタクシーに乗ることにする。お寺の前からのって2300円であった。しかも途中の春野町で県道278が工事中で大きく迂回してである。
春野の野球場の前から役場へ本当に後で地図で確認すると大回りである。34番 種間寺に8時40分頃着く。摂津の四天王寺を建立するため百済から招かれていた仏師たちが帰る途中に暴風雨に遭い、この近くの秋山に避難した。岐路の航海の安全を願って、薬師如来を刻んで秋山の本尾山に安置した。その後大師が訪れ、薬師如来を本尊として建立した。唐の国から持ち帰った
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最古の手水鉢と底の抜けた柄杓
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五穀の種を蒔いたことから種間寺と名づけられた。本尊の薬師如来像は国の重要文化財であり、安産の薬師として信仰を集めている。境内には子育観音がありお礼参りに奉納された底の抜けた柄杓がたくさんある。いわれは妊婦が持ってきた柄杓の底を抜いて安産祈願し、持ち帰って出産後奉納する習わしになっているという。
次の35番へ向かう前に入り口の右側のお店でパンを買い求める。賞味期限が近いのでこれで良ければご接待しますといわれ、ただでいただく。お寺の前には小さな小川が流れている。西へ歩きだすと、軽トラックに乗ったおじさんに出会う。彼は春野役場に用事があって来たのだという。これから進む方向と目標を教えていただく。お目当ての山は遥かかなたに鉄塔のずっと後ろに見える。道は道なりに真っすぐにといわれ、仁淀川の橋は右側を歩くようにきつく言われる。こちら側の左側は歩道がないので交通事故が過去にあったと注意をうける。このおじさんがまた大変親切な人で、また後ほど会うことになるとは思いもしませんでした。工場の横を過ぎ、JAを通り過ぎのどかな田舎を歩く。住宅街を抜けると仁淀川の堤防に突き当たる、ここで先ほどいただいたパンを食べる。これが今日の昼飯がわりである。生コン工場をすぎると国道56の下をくぐる。くぐると堤防に上がる坂道があり、登ってゆくと先ほどのおじさんが軽トラックでここまで来てくれていて待っていてくれる。道を間違えずに来るのか心配で見に来てくれたのだ。おじさんに橋を渡ってからの道を教えてもらう。ここまでの親切に対して二人で心からのお礼を述べてお別れする。何と親切な人がいるのでしょうか、これも大師様のご加護のおかげなのでしょう。教えいただいた通りに仁淀川大橋を歩道で渡り右岸堤防を歩く。向こう岸を見ればまだおじさんが見送っていてくれる。暫らく歩くと下への標識で堤防から降りる。国道を離れたので静かになった。荷物を宿に預けてから35番さんに行こうと喜久屋さんを探す。町の中に見つけ入る。声を掛けると先ほど外出から帰ったばかりだとにこやかな笑顔で出て見える。荷物をお願いすると心安くそこに置いといてといわれる。後で部屋へ運んでおきますのでと。留守のうちに一人置いて行かれたとも言われる。地図を描いて説明するからと白紙にマジックで35番への地図を書き出す。底へ土佐市の市会議員をしてみえる女性が訪ねてみえた。何かおかみさんにとしゃべられた後で、おかみさんがこの二人36番まで乗せていってやってくれとたのまれている。快く引き受けられ車の接待を受けることにする。おかみさんに35番への地図をもらい、見送ってもらってでかける。車の中でいろいろお話させてもらう。国道56から県道39へ入り塚地坂トンネルを抜けると宇佐の町で海が見えてくる。遍路道はトンネルの手前を右の山に登り峠を越えるのだという。突き当たりの防波堤になったような感じの道路を右折し進むと左手に宇佐大橋が見えてきた。県道23を信号で分かれ、左折すると海峡を渡る。その先は横浪スカイラインになっている。三陽荘という金色の大師さまがある立派な宿の前を過ぎると直ぐに右折。36番への入り口である。
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清龍寺への遍路道
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ここで車から降ろしていただき後は歩くことにする。おかげて時間の余裕がずいぶん出来た。道にはお地蔵さんが並んでいるし反対側には池が見られる。12時に36番 清龍寺につけた。大師が唐の清龍寺で恵果阿闍梨から真言密教の秘法を授かり、その恩に報いるため帰国後て清龍寺を建立しようと発願し、唐から独鈷杵(どっこしょ)を投げた。帰国後大師が四国巡錫中ここで松の木にひかかっているのを見つけて、嵯峨天皇に献上し、不動明王を刻み堂宇を建てた。
独鈷杵とは、心の迷いを寄せ付けないとされる密教の護身、供養の法具。大師が投げたという独鈷は本堂に納められている。同時に投げた三鈷と五鈷は足摺岬と高野山に落ちたという。高野山の奥の院に向かう途中恵果阿闍梨の墓がある。
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行場の滝
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またこのお寺にはこんな言い伝えもある。大師が海で嵐に遭い難破しかけると、不動明王が現れ宝剣で波を切り開き難を救った。本尊はその時の姿を刻んだもので、海上安全の寺として漁民の信仰を集めている。脳キヨウをすませ35番へ戻ることにする。先ほど乗せてきてもらった道を戻ることになる。スカイラインの途中で砂浜に降りて歩く。他にも歩いた人もあるようで足跡が残っている。浦の内湾を跨ぐ宇佐大橋からの眺めは素晴らしい。湾内の方には沢山の船も見受けられる。昼食は橋のたもとのお店で食べなさいと喜久屋のおかみさんに言われていたが今回は食べない。スカイライン入り口のバス停からバスで戻ることにして、時間を確かめる。30分ほど余裕があるので周りの町を見て歩く。バスは県道23をぐるりと大回りする。萩岬から新居を通り仁淀川沿いを遡る。仁淀川大橋を渡ったところの中島バス停で乗り換えて高岡営業所行きで高岡高校通りで降りる。そこからは喜久屋のおかみさんに書いてもらった地図を頼りに歩く。土佐インターへの入り口を過ぎ車の道になっているところを真っすぐに進む。高速の高架下を抜け遍路道は登りにさしかかる。医王山の中腹にお寺は建っていて、坂道は八丁坂と言われミカン畑の中の道である。
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清滝
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大師が訪れ寺の北の山で修法を行い、満願の日に金剛杖で地面を突くと水が湧き出て滝となり、鏡のような池が出来たという。また、お寺の左側には小山があり「入らずの山」と呼ばれている。大師の十大弟子の一人、真如の逆修塔がある。真如は平城天皇の子どもで皇子の座を追われ出家した。求道のため唐へ渡るのにあたり高齢のため死を覚悟しここに逆修塔を建てたといわれる。境内には高さ15mもある大きな薬師如来像があり、胎内を「戒壇めぐり」することが出来る。「高岡のお大師さん」とも呼ばれ、安産祈願に訪れた人たちが奉納した底のない柄杓がここにも並んでいる。ガイドブックに乗っていた消防車はだいぶ旧式のものでいざという時に動くのか心配だ。おかみさんの地図は正確で判りやすいが、田んぼの中でどれが書かれている道か分からな
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喜久屋の夕食
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い。三島神社横を通り、介護施設か何かの前を通り高岡の町までなんとか戻る。16時半に喜久屋さんに戻る、。玄関で杖を預かり、荷物は部屋にすでに運んであり、至れり尽くせりである。建物や施設は最新とはいえないがそれ以上に女将さんの心遣いが嬉しい。風呂はゲタを借りて履いて土間を通り入りに行く。食事は下の広間で頂くことになる。写真のような豪華な食事が女将さんの手作りで出た。同宿はこの時点では一人、食べながらお話させていただく。九州大分から見えており、最後まで歩くといわれ、夕べは高知市内のサンピア高知で泊まったといわれる。女将さんの話ではそこからここまで一日で来るのは相当の健脚でめずらしいというお話でした。本人は遍路に出る前には雨が降っても10Km程歩く練習をしてきたと言われました。明日は須崎まで行きたいとのことでした。食事後に明日のバスの時間を確認すると調べますといわれおねがいしておく。調べてもらったが電話ではなく、本人がバス停まで見にゆかれたようである。何もかもお世話になった、ここはのおかみさんは中山弥生といわれ毎年、年賀状を頂くようになりました。
宿泊先
喜久屋旅館
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電話番号:088-852-0155
住 所:土佐市高岡町丙1番地
宿泊料金: 6,500円1泊2食
トイレ(和式)、洗濯機、乾燥機、ハミガキセット有り
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