表紙>Menu>はじめに>閑話 2回目区切り打ち



徳島編
高知編


2007.11.21〜23

11/21 晴れ 7日目(通算17日目) 今日もへんろ道で山へ
  大盛屋→城辺→(40番)観自在寺→柏→柳水大師→清水大師→薬師堂→馬目  木大師→(別格6番)龍光院→金龍荘

 今朝もいつもの通りの朝の準備である。おにぎりを食べて、接待のミカンと、
飴はポケットへ。道中食べながら行こう。いつもの通りに懐中電灯が相棒であ
る。頼りになる相棒だ。
観自在寺の八体仏
>接待のミカンと飴

国道56経由で城辺の町を
目指す、日の出るまでに
距離を稼がないと、何も見
えないときの方が距離を
歩ける。
40番では八体仏が入り口
に並んで出迎えである。
カエルの石像もある。朝早
いのでまだ掃除中である。
お参りを済ませ納経してもらおうとしたが納経所は本堂の中で不在だ。この寺
刷毛書の納経
には呼び鈴もないので途方
にくれる。大きな声で奥へ
お願いしますと言っても返
事はない。表に今掃除して
いた人も見かけられない様
になってしまった。
本堂と庫裏の間に人を見
つけてお願いする、やっと
のことで無事納経済んだ
「栄える」というカエルの石
像には、
一、親子孫とかえる
一、お金がかえる
一、福がかえる
一、病気が引かえる
と書かれていて、願いながら
なでると叶うといわれている。
その後、国道56を内海町へ。柏から山を目指す。柏郵便局の前が、柏坂遍路道への分岐点になっている。この柏坂遍路道は、国道から柏川沿いを歩き、
住宅地を過ぎたところから、上り始め津島の畑地で国道に出るまで、約4時間
近くかかるという。(私は3時間20分かかりました)
こんな山中にも車道工事中
柳水大師
柏坂遍路道は「柏坂展望
台」までの約3キロあまりが
急坂で、それ以降の8キロ
程はなだらかに下っている
。道のところどころに休憩
用のベンチや小屋があり、
なかなか良いへんろ道で
ある。

一度上りきると柳水大師
があり、直ぐ横には休憩所が作られている。いわれは、旅人の渇きをいやすた
めに大師が柳の杖をつき立てたところ、甘露の水が湧き出てきたので、柳水と云うようになったという。
清水大師
清水大師への下り口
その後、頂上を過ぎ
たところに、
清水大師への下り
道がある。 
それを左手に下りる
とあるが、薄暗い木
立の中にあり、この
前の広場で昔は相
撲が取られていたといわれている。しかし今見ると相当狭い。隣に
ある説明の板にはこう書かれている。
一人の娘巡礼がこの地にさしかかった時、余りののどの渇きに意識を失い倒
れてしまいました。するとそこへ弘法大師が現われ、娘を揺り起こしながら、傍
らにあるシキミの木の根元を掘るようにと言い、姿を消しました。意識を取りも
大師水のいわれ書き
どした娘が、シキミの木の
根元を掘り起こしてみると、
真清水が湧き出し、娘がそ
の水を飲むと持病の労咳
がすっかり治ったという話
が残っています。
 また、この地において、
昭和15年頃までは、毎年
旧暦の7月3日になると、近
郷近在の力士による奉納
相撲が行われ、多くの人が
集まり、市がたっていたそ
うです。とあります。
また、この道は茶屋への道
で距離はすべて茶屋まで
の表示になつている。
これを済ませ、元のへんろ
道までもどり、歩く。へんろ道の横にこんなものもありました。
水準点
つわな奥

少し進むと今度は開
けた場所に出ました
。ここは絶景の展望
台で、中央前方に
は由良半島が見え
る。展望台の道の左
手に壊れかけたよう
な足場が残っていた
が、これは、何年か
前この場所で芹洋子のミニコンサートが開催
されたいう。「つわな」を調べてみると「つわぶき」のこと。 
その後、進むと本来のへんろ道らしくなってきて、柵もなく、牛の背、馬の背な
どの細い道を歩く。この道の右、左で水の流れが分けられているのだ。簡単に
言うと分水嶺だ。茶屋休憩所を過ぎてやがて人が住んでいるところに着く。
家の前でおばあさんが叫んでいる。へんろ道はこちらだよーーと。
お礼を言って通り過ぎる。やがてへんろ道は小祝川に沿って歩くことになる。
小祝の部落を過ぎて上組、三島へと辿る。国道56で青年と出会う。この近く
の造り酒屋の息子だという。彼が道はわかりますかと言うので、話をしているう
ちに、この部落にもいいお寺がありますので、お参りくださいという、私がこれ
からあんないするというので、後ろをついてゆくと、禅蔵寺(宇和島市津島町上畑地) に案内してくれた。
禅蔵寺薬師堂
禅蔵寺本堂
薬師堂が県の文化
財で、禅蔵寺本堂
の南側にあります。
町のHPによりますと

間口5.61m奥5.62m
の方形造り、かや葺
きで、室町末期の
様式を残して江戸
中期に再建されたものと伝えられています。
外部は伝統的民家様式で、内部は唐様で、
特に花頭窓や板張りに特徴があります。と書かれています。       
説明板
      写真は案内してくれた彼
と薬師堂です。
大門で思わぬ時間がかか
ってしまったが、彼のお陰
で普通では寄らない薬師
寺に寄れて良かったのだ。
彼と別れて、薬師寺の前の
道を進む。満願寺には寄ら
ないので、そのまま国道に
沿ったへんろ道を進む。
寄松から新しい国道と離れ、昔の国道を進み、宇和島
署の先の信号で右手斜め
に入る。暫らく進むと右側に
馬目木大師の標識があり、
入ると突き当りに祀られてい
る。
右側は普通の民家で、後ろは山である。狭い奥まったところにあった。    
馬目木大師
馬目木大師は、旧・願成寺大師堂だそうで、
説明書きには 弘法大師の開かれたという九
島(宇和島港の対岸の島)鯨谷(現在の蛤)の
願成寺は、四国霊場四十番札所観自在寺
(御荘平城)の奥之院であったが、離れ島に
あるため巡拝に不便であったので、寛永8年
(1631)に元結掛(もとゆいぎ)の大師堂に移
し、元結掛願成寺といった。この寺は明治に
なってからさらに現在の国鉄駅の近くの龍光
院に合併せられた。残ったお堂は馬目木大
師と呼ばれ、人々の深い信仰の対象となって
います。
この大師堂を馬目木大師といういわれは、弘法大師は鯨大師をつくられたも
のの、海を渡って九島までお札を納めに行くのはたいそう不便なので、宇和
島の海岸にあった渡し場に遥拝所を設けられ
禅蔵寺本堂
た。そしてこれに札をかけ
よといって、そこに馬目木
(ウバメガシ)の枝を立てて
おかれたら、いつしか根づ
いて葉がしげるようになった
という。
その後も説明書きは続くが
省く。
通りに戻って進むと直ぐに
小さな川に出る。神田川と
いい、川に沿って歩く、や
がて勧進橋を渡り市中へ進
む。宇和島病院の裏を通り
、城山公園に突き当たる。
それを右手に歩き、和霊神
社を左へ曲がり、南予文化
会館を通り過ぎる。公園を
半周したようだ。公園を過ぎたところで右折して新町の中を通り過ぎると辰野
川があり、すると幼稚園に突き当たる。
それを左折すると右手に別格6番龍光院に着く。このお寺はすべてが真新し
い。
龍光院本堂
大師堂
^別格のHPによれば縁起は、
大師四国の各地で御修行
の砌、当地に立ち寄られ
僻地故に都の文化の恩恵
の影薄を憂い給い、四国
八十八カ所霊場の開創を
発願され、大同年間にそ
の御願成就せられたのを
記念し、此処に堂宇を建立されたお寺と伝う。
また、宇和島市九島鯨谷(現・蛤)にあった願成寺
が、寛永9年(1668)に同市元結掛の大師堂に移された。さらに明治初年に
現在の龍光院に統合されたという。願成寺は第四十番の奥之院であったた
め、四十番奥之院と呼ばれる。
また、初代藩主伊達秀宗が、宇和島城の鬼門に当るこの地に、龍光院を建
立して鬼門の鎮とし、伊達家、藩、領民の安泰を計り、伊達家の祈願寺と定め
た。
文学碑

境内に上るための正面の石段は111段あるそうで、
108段は人間の持つ煩悩の数。残りの3段は三世
を表わす。
三世とは今を生きる人間にとって、過去(先祖)、現
在(自己)、未来(子孫)にあたる。
宇和島の市内が見渡せる素晴らしい景色の境内で
ある。
また、境内は見るべきものが沢山ある。まず、芭蕉
の句碑。
「父母の志き里に恋し稚児の葦」芭蕉
                「芭蕉忌や母は宇和島の人よし」英
宝篋塔
その横には、
宇和島市最古の文学碑とし
て市の史跡に指定されてい
る「椎本芳室の宝篋塔」。こ
れは大阪の談林派俳諧の
宗匠椎本芳室(1664〜17
47)の長寿と功績を讃え、
四言六句の詩を刻した寿
蔵(生前建立の墓)で、延
享3年(1746)に建立され
た。----と書かれている。
納経をすませ、数珠を買い
求める。伊予のお寺のお庫
裏様は若くて綺麗な人が多
い。この龍光寺も美人だ。
別格を済ませて、宇和島駅
へ、ここで帰りのキップを買
うことにする。指定席が欲しいので早めの方が良いとの判断だ。
宇和島駅前のうし
宇和島駅前の汽車
駅前には牛の像と古い機
関車が展示されている。
機関車は鉄道唱歌の作者
がこの地の出ということだ
そうです。
その後、駅前を進むと、闘
牛場などがあり、踏み切り
を渡り進む。ガードをくぐり
歩くこれが国道320だとい
う。二つ目の信号の三叉路を左手に取る。国道とは
ここでお別れである。線路の向こう側に大きなショッピングセンターが見える。
フジグランと、地図で確認する。金龍荘へはここからがよさそうなので左折する
。コンビニがあるので立ち寄る。明日の朝の飯を確保する。踏み切りを渡り、
小川を渡り進むと国道56の手前にデオデオとメディコ21があり、それを右折し
て国道を歩く。三叉路をそのまま国道を進むと右手に自動車学校があり、先
ほど渡った小川も並行して流れていた。直ぐ先が金龍荘だった。風呂場から
覗くと川が直ぐ下に見える。
金龍荘の夕食
ここも食堂を経営されている宿だ。部屋は大部
屋をアコーデオンカーテンで仕切ったものだ
が仕方がない。最初電話した時には、断られ
た、職人さんが沢山泊まられていて部屋がな
いと言われていたのだが、着いたらこの部屋でよいかといわれた。乾燥機はないが、部屋にロ
ープが張り巡らされていて、それで乾かしてく
ださいといわれた、洗濯はご接待しますので、
出してくださいと言われたので、お願いするこ
とにする。今回のへんろ旅では、洗濯の接待
をよく受けた。他人の下着まで洗うのにはと頭
が下がる。多くの職人たちは夜遅く帰ってきたようで、夜は外で食べてくるよう
だ。ここは素泊まりもやっている。隣の二人連れも遅く帰ってきて、遅くまでテ
レビのサッカーの試合を見ている。北京へのキップをかけた日本の試合であ
るが、隣に人がいるのはカーテンのすき間から分かるのだから、と自分勝手の
考えをしながら眠りにつく。部屋は大広間だが、エアコンもあり快適だ。
夕食は写真のほかにも出て、料理を食べきれなかった。
明日は早立ちなので朝食を断っておく。お姉さん夫婦と一緒で姉たちは早い
ので何時でもOKとの返事だ。
        
 宿泊先

金龍荘


電話番号:0895-22-2915   
  
住   所:宇和島市高串1-1393-1
宿泊料金:朝食なし 4,700円
トイレ(和式)、洗濯は接待、乾燥機(なし)、風呂用タオル、ハミガキ、あり

  
リピート度: △

戻る

11/22 晴れ 8日目(通算18日目) 今日三間平野を元気に歩く    ぞ
   金龍荘→道の駅みま→(41番)龍光寺→(42番)佛木寺→送迎庵見送り大師→   道引大師→(43番)明石寺→大洲→(別格8番)十夜ヶ橋→ホテルにし川
  いつもの時間だ。夕べ言われた通りカギは開けられていた。
もう、お姉さん夫婦は出かけられたようである。職人たちはまだ、寝ているので
音を立てないように静かに用意し出かける。
高光駅の手前の信号を右折せよという地図のとおりに右側を歩く。また、この
高光駅が表示が無く分からなかった。真夜中はJRの駅は真っ暗なのかな--。
一度通り過ぎて戻って確かめて信号を曲がる。この角にはJAがあった。これを
地図に書かれていればよかったのだが。線路を渡ると真っ暗な道になる。右
手下には灯りがあり、道路工事中である。これの工事人たちが金龍荘にも泊ま
っていたのだろうか。高いところに道があるようで、曲がると県道57に出る。
これを真っすぐ進めば務田に行けるはずである。昔と通ったイメージから相当
道の様子が変わっている。全体の感じは暗いので分からないが随分広くなっ
ているようだ。。光満川とJR予土線と並んで道はあるはずだ。
途中に何ヶ所か休憩所も作られているが、暗いので変に思われてもいけない
のでそのまま歩く。窓峠も作りなおされていて広くなっている。峠を越えると務
田のバス停で、昔、隣にあったお店もなくなっている。へんろ道を外れて道の
駅「みま」を目指す。少し休憩もしたいので。
道の駅では自販機でカップコーヒーを買って飲む。温かいので体が温まる。
軒下では、バイクのお兄さんたちが野宿をしている。雨、露が凌げるし、水、ト
イレも完備でよいのだろう。その後、県道31をそのまま進む。利近池の周りを
回って41番を目指す。門前には長命水の店があり、お寺の階段ですれ違っ
たのが多分、前回のときに説明された主人だろう。

41番 龍光寺といえば、一度お参りされたことのある人は、納経所でいろい
ろな話をしながら、納経帳に書いている住職は私ぐらいのものだとか、3回目ぐ
らいの人には悟りは開きましたか、とか、並んで待っている後ろの方の人に向
かっては、話をやめて急いで書けばいいのにと思っているだろーとか。待って
いる時間を気にならないようにと、今思えばお話されていたのだろう。
その住職が今年の1月15日(平成19年)に亡くなったとお庫裏さまから聞きま
した。今では、お庫裏さまが納経して見えます。納経所で一緒になった人たち
と住職の思い出話を暫らくしました。誰もが印象深く覚えて見えるようでした。
42番の地蔵様
その後、お寺の横から山に入るがすぐに、県道31を
歩くことになる。この三間は車道と歩道の分離帯が
花壇になっており花が咲いている。今はコスモスで
ある。直ぐに42番産に着く。ここには2人の青年がお
参りに来ていて彼らは今人で、記念撮影は携帯であ
る。その顔を見ると、耳にはイヤリングをしているが、
遍路に来ているということは真人間なのだろう。人は
見かけで判断してはいけないという見本だ。
彼たちの足は50CCのバイクである。
仏木寺の前から標識があるので歩き出したがどうもおかしい。車用の標識だっ
たのだろう。ぐるっと回って高速の側道を進み、県道へ戻る。彼らも後ろを追っ
かけて来たが間違いに気づいたのか戻っていった。三間町則で左折する標
識に従って曲がる。三間川の上流部である。工事車両のタンク車が水を汲ん
でいる。この当たりも高速道路の工事真っ盛りである。暫らく歩くと先ほどの県
道にでる。しかしすぐに、右手の石造りの階段を上る、その上に休憩所が設け
られている。 休憩所で一枚脱いで上りの用意をして出発。ここからが歯長峠への一番厳しい登り道だ。急なのは最初の200メートルだけ、と標識に書かれて
いたが、道には鎖が設置されていて、鎖を手繰りながらの登坂となる。88番へ
の胎蔵峰の上りを思い出させる。
送迎庵 見送り大師
 見送り大師の石仏たち
ここを過ぎればあとは比
較的なだらかな道となると
書かれている。目標は左、
山の上の鉄塔だと書かれ
ている。左下を見ると高速
のトンネルを掘っている。
歯長峠をぶち抜いている
のだ。後で反対側の出口
が見られた。
f歯長峠には送迎庵 見送り大師がある。昔はここに歯長寺があったが、昭
和35年失火焼失し、昭和42年に辻堂が再建され、石仏が安置されて
峠からの景色 
いる。
その後、下りになりだらだらと続く。最後はまた工事
中の所へ出る。トンネルで歯長峠を越えてきたトン
ネルとの合流点にはガードマンも立って見えた。
坂をそのまま下ると川に出る。
肱川で、橋の手前に歯長地蔵が祀られている。
平成12年吉日と書かれているので新しいものだ。
高速の工事と関係があるのかな--。
地蔵堂のとなりには休憩所も作られて、近所の人が
数人休んで見えた。
橋を渡ると県道は29になり 肱川に沿って道はある。
歯長地蔵
 道引大師
暫らく歩くと道引大師
ある。消防小屋の隣であ
る。下川に古くから草庵と
して祀られているが、由来
はさだかでないと、へんろ
みち保存協力会の本に書
かれている。
皆田で旧道のへんろ道に
入る。小学校を通り県道に
出る手前で工事の入り口があり、ダンプが今出ようとしているが、出口で一度
ローラーの上で止まってタイヤについたドロを落としている。これならば、道も
汚れずに済む。すべての工事でも取り入れてくれたのならば良いのにと思う。
稲生下組で右手に入り、上組の町を通って、西予宇和ICを目指す。ここの道
がまた、曲者で2度高速をくぐらないといけないのだ。間違いやすいところだ。
民家の軒先のような狭い道を通って進むと、また高速道路があり、真っすぐに
43番奥の院
白王権現 
進む、暫らくいって右折すると、
うつそうとした森の中に
 43番の奥の院、白王権現
がある。ここの縁起は、
明石寺創建の頃のこと「18、9の
娘が軽々と大石を両腕に抱き歩
いていたが、当所まで来たとき夜
が明けてしまったので、そのまま
置き去ってしまった。その女は観
音の化身か龍女か、その石を白王権現と崇め、祠を奉った
。」と本に書かれている。
いくら、石を祀っているとはいえ、石柱と石の祠があるのみで、奥の院というの
に庵もないのは、始めてだ。
43番奥の院
それを過ぎて酒屋さんの角を曲がるともう、43番の
参道である。参道の初めは急坂だが、頑張って上る。
この43番さんも工事中であった。延命地蔵堂の前
は特に近寄れないほどである。紅葉もちょうどいい
塩梅であり、43番さんは、もみじも多いので赤が綺
麗だ。
左手に食堂や売店があるが、食堂はお休みという。
団体さんの予約が無い時は休んでいると、売店の
おかあさんが教えてくれた。11月は遍路の季節ではないのだろう。接待所も
ほとんどのところで締められている。
その後は、宇和町の市内を通って歩く。途中には開明学校という文化財があ
ります。町のHPによると、「 明治15年(1882年)に建築された小学校。日本
の伝統的木造建築の中に洋風のアーチ型の窓を取り入れた擬洋風のモダン
な建物で、当時は舶来のガラスが使用されました。
長野県松本市にある重要文化財「旧開智学校」と昭和62年に姉妹館提携し、
平成9年5月には国の重要文化財に指定されました。
 明治時代を中心とした教科書などを展示し、古い教室が郷愁を誘います。」
と書かれています。
町のHPは http://www.city.seiyo.ehime.jp/kanko/uwa_kaimei.html です。
こくどうに沿った裏道(昔の国道?)を進む、峠は今回トンネルとする。
札掛大師堂
途中に仏陀懸山 札掛大師堂(松下庵)がある。
この寺の縁起は、弘法大師が当地でご休憩の際、
釈尊の御影札を松の木に掛けられたといういわれかららしい。 山門に鐘が吊られた寺である。
ここまで来ればもう一息である。大洲の市内を通り過
ぎて、別格8番を先に済まそうと急ぐ。
明日は、帰らないといけないので、別格の7番のみ
にしたい。そうすれば少々時間が掛かっても列車に
は十分間に合うだろう。
別格8番 十夜ケ橋 永徳寺の大師がお休みになったという橋は、高速道
路の下になってしまっている。何とかならなかったものだろうか。 ここの縁起は
今を去ること一千百有余年の昔、弘法大師は衆生済度大願のため四国の各
別格8番十夜ケ橋本堂
橋の下で大師がお休み
地を行脚し給い、当大洲
地方をも御巡錫になりまし
た。当時この地方は未開
のこととて、村落人家至っ
て少なく且つ農繁期にて、
宿るに家なく、途中に日暮
れて空腹のまま一夜を小
川に架けたる土橋の下に
野宿され、夜の明けるのを
待ちかね給い、一夜も十夜の長さに感じられました。かかる艱難を受けられる
につけても衆生済度の念願は愈々切なるものとなり、御身の苦しみをば忘れ
給い生死の六道に生き悩む衆生をして早く信仰の橋を渡らし、速に常楽の彼
に至らしめん
大師堂
橋の下
と大悲の御心をは、生きなやむ 浮き世の人を 渡さずば 一夜
も十夜の 橋と思ほうと詠じ
られ久万菅生山に旅立た
れました。
それより十夜ヶ橋という名
が起こったと伝えられてい
ます。又、遍路が橋の上を
通る時、杖をつかないとい
う風習はこの話から起こっ
たものです。と別格20寺の
HPには書かれています。
橋の手前にお寺はあり、川の向こう岸に大師がお休みになっている様子を再
現されています。また、お寺には、通夜堂もあるようです。
由緒書
お休みの大師
また、本
堂の納
経所で、お願い
すれば
大師に
かける
フトンが貸し与えてもらえるようです
。今日の大師様は3、4枚の
フトンを掛けられていました

お参りし納経を済ませ、これ
で明日の別格7番さんを残
すのみとなった。納経所で
別格7番へはどれくらい時
間がかかりますかと尋ねて
みたが明確な返事はない。宿でもう一度確認しよう。
 宿は国道沿いの鉄筋のビルである。料理旅館なので、夕食も豪華だ。フロン
トでチェックインした時に明日のことを尋ねると、女将さんに聞いて返事します
とのことだった。部屋に移動していると、部屋で用意されていたのが、女将で
今下でこれこれを尋ねてきたと話すと、部屋の電話で確認して、タクシー会社
に電話をして確認していただける。それによると、往復で1万円弱、時間は3時間ほど見ておけば十分とのことだ。それならと予約をしていただく。     
にし川の夕食
  お風呂もフロントで部屋の風呂を使ってくださ
いといいましたが、今日は特別に広い風呂に
入っていただきますとの、ありがたい言葉。
お客の少ない日には部屋の風呂をお願いし
ているが、寒いので温まってもらうために、湯
をいれていますとのこと。
食事に下りた時に見てみると、今晩の泊り客
は私を入れて4人ほどだ。食事には団体さん
が10人ほど車で来ていた。食事だけ食べに
くる人もあるのだ。
運転手さんは、別に食べて見えるようだ。
明日の予定を女将さんに確認して部屋へもどる。
ホテルの玄関に8時半である。
宿泊先

ホテルウエスト
リバーにし川
 

電話番号:0893-24-4046   
HPは http://www.west-nisikawa.jp/
住   所:大洲市田ノ口甲392-61
宿泊料金:1泊2食付 7,350円
トイレ(洋式)、洗濯機、乾燥機(不明)、タオルあり、ハミガキ
あり、ドライヤーあり、

リピート度: ◎
 
戻る


11/23 晴れ 9日目(通算19日目) 真っ暗な中の歩きは今日は  無し
にし川→(別格7番)出石寺→大洲駅→自宅へ
今日はゆっくりで、朝食も食べれる。7時に下りていって食堂へ行く。もう、用意
が出来ていて案内されて、テーブルに着く。サラリーマン風の二人連れも遅れ
てテーブルに着いた。上司と部下のように見える。
朝食
にし川
食事後にはコーヒ
ーを出しますのでと
、女将さんがいわれ
た。食べて、ゆっくり
と部屋へ戻って用
意する。
8時少し過ぎにフロ
ントへ下りて精算し
てタクシーを待つ。
時間より早めに来てくれた。
運転手といろいろ道中話をするが、1時間近く
かかるが山道で速度が遅いのでメーターはあまりあがらないといわれる。
地元の運転手でもあまり幾度も行かれないためか一度道を間違えた。ほとん
ど山の中の九十九折で、人家もない。これでは歩いていても合っているのか
本堂
山門
否かが心配だ。歩きだと3
時間半で、遅い人なら往
復で一日ともいわれた。以
前は八幡浜からバスが一
日1便あったのだが、今で
はなくなっている。こんな
山奥で人家も無いのでは
無理だと思った。人家が
あったがそれはもうお寺に
近いところであった。
別格7番 出石寺に到着で、運転手がゆっくりお参り
してくださいといわれた。この寺の縁起は開創は養老二年(718年)六月十七
納経所
大師堂
日である。宇和郷田中庄
に住する猟師作右衛門が
、狩りに出て一匹の鹿を見
つけ、そのあとを追うて山
に登り、まさに鹿を射殺そ
うとしたところ、突然全山
振動して光明赫赫と輝き、
鹿の姿はかき消え、鹿の
立っていた足下の岩が真
二つに割れ、千手観音菩薩・地蔵菩薩の像が地中から湧き出して金色の光
を放った。
朝の山々
 この奇瑞を目撃してから、
作右衛門は殺生を業とす
る生活をやめ仏道に入り、
自ら道教を名乗りこの仏像
を本尊とし、出石寺と命名し
た大師巡錫の砌、「三国無
双の金山」なりと賛嘆され、
後世この仏像が粗末に扱
われ冥罰を蒙ってはならぬ
と、石室に密閉して秘仏と
され、護摩供を修法された
と言う。
   以上HPより
大変に広い境内で、山の頂
上にあるので見晴らしは素
晴らしい。
境内にはいろいろなものが
ある。その一部を写真にとってきたので、見てください。
本堂横からの景色
境内からの景色

鹿の像
ほかにも、こんな辺ぴな山の上にも食堂があるのが、不思議だ。そして、営業
しているのだ。43番の門前の店などは団体の予約がないと閉めているというの
方位盤
である。
終わって車に戻ると、もうい
いですかと尋ねられる。
一応お参りし、納経を済ま
し、数珠玉もいただいたの
で、済みましたと答える。
そのまま、JRの駅まで送っ
てもらう。時間が早すぎた。
予定の時間より2時間も早
いので、列車を変更しても
らう。指定はもう無いという。
松山までなので自由席にす
る。その先は指定がとれた。
もちろん新幹線もである。
変更した後、時間があるの
で、大洲の町をぶらぶらす
る。食事は駅弁を買って列
車の中で食べる。列車の中から今行ってきた出石山を探すがどれなのか分
からない。ずーと奥にあるのだろう。

宿泊先

名西旅館


電話番号:088-644-0025

住   所:徳島市一宮町西丁414
宿泊料金:1泊2食6,500円
トイレ(和、洋式,)、洗濯機、乾燥機(今回説明なしのため使
わず)、タオルあり、ドライヤーなし、

本日の歩数:56,622歩
リピート度: △

戻る

続きは
SEO [PR] !uO z[y[WJ Cu